谷川道子ブログ

東大大学院修了(ドイツ演劇)。東京外国語大学教授。現在、東京外国語大学名誉教授。

岸田理生と「リオフェス」のこと 

 

テアトロ エッセイ 2016年11月号

 個有性と共有性のポリフォニー空間

岸田理生と「リオフェス」のこと 谷川道子

 

              

 何故か、これまで『テアトロ』誌にはご縁がなかった。一九三四年創刊という日本演劇界の最老舗の演劇月刊誌――この厳しい出版状況のなかでの奮闘振りに敬意と称賛を抱き続けてきたのだが、ドイツ演劇専門を自認してきたせいか、そういう巡り合わせだったのでしょう。今回ご縁を頂いたので、「リオフェス」について書かせていただきます。

 

劇作家岸田理生

リオとは岸田理生(1946-2003)――ご存じない方のために少しだけ紹介を。一九七四年に演劇実験室・天井桟敷に入団。寺山修司(1938-83)の弟子・共働者として劇作活動を開始。この出自は『身毒丸』や『レミング』などの寺山後期の作品は共作とされるほどの筆力を岸田に与えただけでなく、自らを他者のまなざしで異化し相対化する寺山ゆずりの複眼と骨太の姿勢をも遺し、寺山の天井桟敷とともに『奴婢訓』などのヨーロッパ公演にも参加。アングラ演劇運動の最盛期を共体験しつつ、七〇年代末から「女性も書きたい」と寺山の許可を得て独自の活動を開始。七八年には哥以劇場を創立し、『捨子物語』『夢の浮橋』などの戯曲を発表。八一年には岸田事務所を設立、八三年の寺山の死をはさんで演出家和田喜夫と組んで「岸田事務所+楽天団」を結成。八四年に初演された『糸地獄』は大成功作となって岸田戯曲賞を受賞。文字通りの代表作となり、再々演や九二年の海外演劇祭への招聘も。それまでの岸田理生の演劇活動の集大成であるとともに、岸田と日本演劇の八〇年代半ばでのある種の到達点/行き止まりと、さらには転換点の必然性も暗示していたのかも。

 

舞台は昭和一四年の糸屋、表は紡績工場、裏は娼家、あいだにイエの聖家族、そんなからくりの嘘で紡いだ日本の近代、そこに少女繭が海からやってきて、「ここはどこ?私は誰?どこから来てどこに行くの?」と問いながら絡み取られていく。糸引き糸切り糸地獄、女たちの死に顔の、いまなお風呼ぶ糸地獄、真正面から女であることと日本の近代を併せ問うた。―「女性を書きたい」、それを流麗な七五調の台詞やからくり芝居の歌舞伎的世界に託して見せるうまさ。他に岸田は『終の栖・仮の宿―川島芳子伝―』『私たちのイヴたち』『恋 三部作』など多作、八〇年代は秋元松代以来、如月小春、永井愛、渡辺えりこ、など女性劇作家が輩出してきた時代でもあったが、『糸地獄』はそれらを骨太に引き受ける八〇年代を代表する華麗な作品で、終着駅で転換点でもあっただろう。『糸地獄』の最後の打ち上げに参加された太田省吾さんが、「俺、こういうのはもういいかな」と呟かれたのを理生さんも聞いていた。理生さん自身が転機の出口を探っていたのだと思う。

私が岸田理生に出会ったのは、そういうさなかの一九九〇年でした。理生さんは九五年からは岸田理生カンパニーを主宰。

 

HMPから「リオフェス」まで…

ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーと『ハムレットマシーン』に出会って、一体これは何なのだと謎解きを始めたのが一九九〇年開始のHMP(ハムレットマシーン/ハイナー・ミュラー・プロジェクト)。演劇評論家の西堂行人とアメリカ演劇の内野儀とドdokuritusite イツ演劇の谷川道子を核に、演出家鈴木絢士と劇作家の岸田理生が加わり、理生さん宅に定期的に集まっては、皆でああでもない、こうでもある…日本ではまだ殆ど知られていなかったミュラー探索を翻訳・紹介・討議・上演などを並行させながら、日本・世界各地で展開。1995年のミュラーの死をはさんで、二〇〇二年には金沢で「かなざわ国際演劇祭2002」として、さらに二〇〇三年に東京・横浜で韓国や中国からの参加も含めた大がかりな演劇祭「ハイナー・ミュラー・ザ・ワールド」も開催。

そのHMPのメンバーとして演劇現場の実践部隊を引き受け、ミュラーを原作に『メデイアマシーン』の台本作成や『カルテット』の演出などを手掛けてきたのが、岸田理生さんでした。従来の戯曲概念をはるかに超えて上演不可能といわれたミュラー作品の読みや翻訳・上演活動、シンポジウム、観劇ツアー等々にも積極的に参加し、国内に自閉していったかの日本の80年代演劇からの突破口を、自ら探ろうとしていたのではなかったろうか。  

 

シアターの場におけるドラマの位置というものも根底から構造変化してきた現代演劇のパラダイム・チェンジと、真っ向から切り結ぼうとする潔さとともに、視野と問題意識・実践においても、国境を越えようとする岸田の意思も明らかだった。そしてHMPだけでなく、この頃からアジアの演劇人たちとの交流も積極的に行うようになる。1997年には国際交流基金の後援で、シンガポールの演出家オン・ケンセンと組み、シェイクスピアの『リア王』を脱構築。長女が父を殺し、原作にはない母が登場するテクスト『リアLEAR』を提供。舞台では、能、京劇、現代演劇、ダンス等々の多国籍パフォーマーによる多国籍言語が飛び交い、岸田の台本はそれぞれのパフォーマーの言語に翻訳され、能で語られる台詞にまで、日本語の字幕がついた。この舞台は東京から大阪、福岡、香港、パース、ベルリンへと1999年まで巡演。次いで2000年には、やはりオン・ケンセンとの「新しいアジアを探る」共同作業の第2弾として、『オセロ』を「創り手の物語」にさらに変換させた『デスデモーナ』も創られた。

 

没後の「リオフェス」

だが理生さんは二〇〇一年暮れに病に倒れ、〇三年の無念の逝去後に、宗方駿を代表に縁の人たちで「理生さんを偲ぶ会」が結成され、『岸田理生戯曲集』全3巻の刊行(而立書房)と並行して、命日の六月二八日(通称「水妖忌」)をはさんで都内数か所でほぼ一カ月にわたって毎年二〇〇四年から二〇〇八年までは「岸田理生作品連続上演」――一九九〇年以前の岸田理生の舞台を殆ど知らない私には、天井桟敷や哥以劇場時代からの理生さん縁りの演劇人がこういう舞台を創ってきたのかという俯瞰的なレトロスペクテイブの体験もさせてもらったし、それが一段落したかのような二〇〇七年からはもっと自在に岸田理生と向かい合おうという思いから「岸田理生アヴァンギャルド・フェスティバル」(これが通称「リオフェス」)が開催され、二〇一六年で第一〇回を迎えた。

通算一三年、すべての舞台を観られたわけではないが、毎年いくつか気になるものはなるべく観るようにしてきた。たとえば近畿大学学生だった笠井友仁が結成したhmpは大文字のHMPの演劇祭にも参加してきたが、〇七年の第1回リオフェスでは、『糸地獄』をもとにした『Rio』。そして二〇一〇年に岸田理生作『リア』を原作にリオフェス第四回の参加作品として創られたのが不思議な題の『Politics!Politics!Politics and Political Animals!』だった。拙著『演劇の未来形』(東京外語大出版会2014年)でも言及しているので参照されたい。この第4回リオフェスでは、hmpだけでなく、岸田理生の親友でもあった韓国の演出家キム・アラもこの『リア』をとりあげて、大胆に再構成。韓国と日本のスタッフ・キャストの合同により、座・高円寺のロビーから客席までを駆使して、スケールの大きな、まったく新しい『リア』を創り上げてみせた。アジアにおける深層の父権制母権制の対峙と絡み合いへの問題提起が底流にあったと言えるだろう。hmpとは対照的で新旧世代の大小の二つの『リア』の競演もこの演劇祭ならではの醍醐味だった。あるいは二〇一三年の第七回リオフェスでは、ダンサーで振付家の芝崎正道は、岸田理生がHMPでミュラーの『ハムレットマシーン』に触発されて上梓した『メデイアマシーン』をダンスシアター・プロジェクトとして上演、二〇一五年には岸田が演出したラクロの『危険な関係』にもとづくミュラーの男女の二人芝居『カルテット』を、柴崎正道自身の一人芝居としてしゃれたカフェサロン・シアターに仕立てて見せた。こういうのもアリかと感心。まだまだ展開は可能だろう。 

 

第10回リオフェスから三作品

さて、今年二〇一六年の第10回リオフェスからは、あえて一〇周年記念の新挑戦の三作を挙げておきたい。

宗方駿主宰のプロジェクト・ムーの『アンポはつづくよ どこまでも』は、岸田理生が病に倒れる直前に遺した、二〇〇二年に公演予定の岸田理生カンパニー・国境を越える演劇シリーズvol.13『安保・花咲けるオカマたち』という短い企画書をきっかけに創られたという。「旅路の果て」という養老院の特別病棟で、死期の迫った四人のゲイの老人たちが六〇年安保の思い出を介護にやってきたタイ人の美青年に語る物語になるはずだったらしいが、その構想に岸田のさまざまな作品の断片をも織り込みつつ、作家の福田光一が書き大橋宏が演出した岸田理生原案の「幻の新作」。安保法案と改憲の「パンドラの函」問題がもろにリアルになってきている今の状況を、理生さんは予見していたか? たしかに理生さんは政治と男たちを描くときは、喜劇的でかつ容赦なかったが…

次は、岸田理生カンパニーのメンバーを中心に結成されたユニットRによる『眠らない男』。岸田が天井桟敷時代に七六年に単独で書いた処女作『眠る男』に七九年の『凧』をクロスさせて、諏訪部仁のうまい構成・演出でさらにすっきり進化した『眠らない男』として蘇る。今、世界と私は目覚めているのか、眠っているのか? 第一景から、母が少年に「そんなに眠らないと砂男が来るよ」という台詞で、ドイツのロマン派の詩人ホフマンの『砂男』のメルヘン世界に引き込まれる。不眠訓練を操る女帝と医師と愚者の裏世界をもつ二重構造で、意識と無意識の境い目での不眠訓練というブラックメルヘンが、白庄司孝の絶妙なサックスとパーカッションと照明で駒場アゴラ劇場に充満していく。そうか、岸田理生の劇作の原点にはホフマンのメルヘン世界があったかと、何故か嬉しくなった。

最後が、千賀ゆう子の構成・演出・主演による『ラブレター~作品と日記による~』。千賀によると、一昨年に偲ぶ会の宗方駿氏から「リオフェスのために」と渡されたのが一冊のノート、一九九七年十月一四日から二六日までの日記風の手記。これを中心に作品を創るのは荷が勝ちすぎると手元に置いて折に触れて読むうちに、これは個人的なものを超えた〈演劇へのラブレター〉だと思い当たった。『リアLEAR』を演出したオン・ケンセンとの関わりと岸田理生の演劇への関わりが重なって、若い俳優たち三人が紡ぐ『リア』からの断片を横軸に、主軸のケンセンへの語りかけのような旅日記を千賀ゆう子が語っていく。 

 

ことに私の心に突き刺さってきたのが、「Keng Sen…いつか話したことがあったわね。私の旅は一九九〇年にはじまりました。ドイツと韓国、間をおかずに二つの国を旅をし、私はKoreaを選んだ。ふと思いました。あの時,ドイツを、ヨーロッパを選んでいたら、あなたとの出会いはあったのかしら?なかったのかしら? わかりません。唯、わかっているのは、私にとってはKoreaを選んだのは幸福だった。距離の近さではありません。日本にのみ向いていた視野が、外から、そう、アジアから日本を見る視野に移行したことがよかったのだと思います。多分、そう多分、私はKoreaを選んだことによって、あなたと出会うことができたのでしょう、そうして『リア』を共有することができたような気がします」――そう、そういうことだったのだろうなと納得する。岸田理生のテクストの中でミュラー菌は生き続けていたし、シンガポールのケンセンの演出を通してそれが世界へと拓いていった。舞台の合間には、入間川正美のチェロの生演奏が切なく響き渡る。緑と青空の広がる大きなバルコニーを持つ客席二〇ほどの六本木の小さなギャラリーはまさに、岸田理生と千賀ゆう子の演劇的な生命の息吹のためにあるかのよう。リオフェス一〇周年の贅沢ないい締めくくりだっただろう。印象的な舞台でした。

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「ラブレター」千賀ゆう子企画公演(第10回岸田理生アバンギャルドフェスティバル参加)
2016年7月24日~26日  於/ストライプハウスギャラリー
出演(左から)/清水周介 斉藤美鈴 佐藤辰哉 千賀ゆう子
写真/宮内勝

 

「リオフェス」の位相

こういう一人の作家へのトリビュート演劇祭が一〇年余も続くというのは、類例がないのではないでしょうか。HMPもミュラーを核に一〇余年続いたが、前半は探り、後半は国際演劇祭の準備に明け暮れた。私個人はその理念は、「ポストドラマ演劇」や「日本におけるドイツ年」へと、またF/T(フェスティバル・トウキョウ)やKEX(京都エクスペリメント)という実験演劇祭での試みへと拓いていったと思っているが、運動論的な実践としては、「リオフェス」にゆるやかに引き継がれていたのではないか、と。

それを可能にしたのが、何より「戯曲集」という形でテクストが公刊共有されたこと。

そして岸田理生を偲ぶというより、思いを寄せる演劇人がたしかな形で存在していること。

おそらく岸田理生の軌跡が、七〇年代の寺山/天井桟敷/アングラ演劇、秋元松代を先駆としつつ、如月小春、永井愛、一堂令、渡辺えり等々の八〇年代の女性劇作家としての模索と自立、九〇年代からのHMPや韓国・アジアとの国境を越える共同作業と、戦後日本の現代演劇の展開を果敢にわが身に引き受けた演劇人のそれだったからだ。

 

そのいずれかの部分に共振・連動して、それぞれが自分たちのリオ・ワールドを創り上げていく。そうきたかと、こちらは納得したり、怪訝に思ったり…このエッセイのタイトルを、個有性と共有性のポリフォニー空間と題した所以でもある。

岸田理生についての博士論文を大阪大学で岡田蕗子が執筆中だときくし、あるいは『テアトロ』先月の九月号の特集「我が心の友への手紙」で、演劇実験室:紅王国主宰者の野中友博が、最初の連続上演で『火學お七』を演出し(観ました!)、いつか『捨子物語』を上演することを理生さんに約束しているのだ。他のメンバーもそれぞれすでに次回は何をどう取り上げようかと練り探っていることでしょう。「リオフェス」自体はすでに助成金を打ち切られて、皆、自前でやっていると聞きますが、こういう独自性と持続性と発展性のある演劇祭こそ、助成され続けてしかるべきではないでしょうか。この原稿も、それへのエールのつもりなのですが…・。

 

 

追記:岡田蕗子さんがついについ先日、大阪大学で岸田理生についての博士論文を提出されたという嬉しい報告を聞きました。今年の「リオフェス 2017(第11回岸田理生アヴァンギャルドフェステイバル)」も、東京は6月22日から7月9日まで、開催されるという。今年は何と七月末には、「リオフェス IN KYOTO」にまで延長されるとか。ネット検索してください。今年のこの「リオフェス」については、書き手を次世代の岡田蕗子さんにバトンタッチして、「テアトロ」誌に劇評が掲載されるはずです。「持続する志」にエールを!