多和田葉子の演劇:『夜ヒカル鶴の仮面』劇場実験&フォーラム
気が付くと…今はもう秋⁈ 私の好きな夏はいつやってきていつ去ったのか? 時や季節の移ろいに鈍くなるのは老いの兆候でしょうが、この地球の季節時計も老いたのか、寒暖の差も、雨風模様も、気候変動も、ついには地殻変動の地震もあちこちで頻発して、地球のグローバル化とは地球時間の老いの末期ではないかと、本気で心配してしまいます。コロナ禍の終焉もどう判断すればよいのか、ともあれ私たちも地球とともに賢く生きていかなければ…
という感じでブログも、しばらくご無沙汰してしまいましたが、表題の京都芸術大学主催の「開学30周年記念・劇場20周年記念企画」と銘打たれた「多和田葉子の演劇」もコロナ禍で1年延期で、8月4日、25日、9月23日のzoomでの連続研究会を無事に終えて、最後の「多和田葉子の演劇『夜ヒカル鶴の仮面』劇場実験&フォーラム」の10月末開催の日程と詳細も決まりました。
そのチラシも素敵に出来上がりましたので、ここにも転載させて頂きます。
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多和田葉子の演劇『夜ヒカル鶴の仮面』劇場実験&フォーラム
日本語とドイツ語で創作する作家・多和田葉子。近年、多和田の戯曲上演に取り組んでいる演出家・川口智子が、“失われている弔い”を探して多和田の初期戯曲『夜ヒカル鶴の仮面』を上演します。
8月~9月にかけてオンラインで行われた「多和田葉子の演劇」連続研究会の締めくくりとして、研究者と実演家が一堂に会するフォーラムを行います。
【劇場実験】『夜ヒカル鶴の仮面』
2021年10月30日(土) 16:00 開始
川口智子(演出家)+劇場実験出演者
【フォーラム】「多和田葉子の演劇」
2021年10月31日(日) 13:00 開始
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日時:2021年10月30日(土)/31日(日)
会場:京都芸術劇場 春秋座搬入口&ロビー
料金:入場無料(劇場実験・フォーラムとも/定員あり/要予約)
2021年10月1日(金)よりご予約開始
チラシ掲載だけでは読みにくいでしょうから、主な企画推進者4名の文章を大きくして転載します。研究代表者の私だけでなく、それぞれ立ち位置の違う4人の主要メンバーの言葉を並べたほうが、実態がわかっていただけるかと思いますので…本番までの準備作業として、ご笑読ご堪能ください。
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多和田葉子の文学営為の自在さへの演劇実験現場からの応答
谷川道子(東京外国語大学名誉教授/研究代表者)
多和田葉子さんの作品は、どれもそれぞれに不思議だけれど、この『夜ヒカル鶴の仮面』はことに私には特別興味深い。理由はいくつもあるが、思いつくままに。
1.これが作家としては初めての多和田の戯曲であること。
2.その成立史についての多和田の解説「この戯曲について」にはこうある: 1990年ころに「演出家のピンダー氏がわたしに脚本を一つ書かないかと言ってきた。…でも何度か頼まれるうちに〈もしわたしが脚本を書くとしたら、こういう風に書きたい〉と口から偉そうにデマカセをしゃべるようになってきた。しゃべっているうちに本当に書きたくなってきた」。「内容的には、ひとつどうしても戯曲という形で書きたいものがあった」、「それは、自分のお葬式のシナリオ。わたしが死んだら、わたしの死体を使って、この戯曲を上演してくださいと遺書に書こうと思った」。1993年秋にオーストリアのグラーツ市で初演。「シュタイアーマルクの秋」という芸術祭の一環で、ベルリン、ハンブルクでも上演され、批評は両極に分かれたというが、多和田としては「読み返すと、生きるのが楽しくなってくる」作品だという。そう、難解なのだが、不思議に楽しい。
3.1990〜93年というのは、多和田が1982年に渡独して1990年にハンブルク大学で修士論文「『ハムレットマシーン(HM)』(と)の読みの旅」を書き始め、90年に東京で開催されたIVG[国際ドイツ文学学会]でそのHMの作者であるハイナー・ミュラーの前で「ハイナー・ミュラーと能」について独逸語で発表し、11月に提出した見事な修論の第5章は「『HM』と日本の能演劇」で締めくくられている。そのさなかで構想されたこの『夜ヒカル鶴の仮面』は、思うに多和田流の夢幻能の遊びではなかろうか。
4.しかもこの間に、1992年には『かかとをなくして』で群像新人文学賞を、1993年には『犬婿入り』で芥川賞も受賞。そして同年秋に『夜ヒカル鶴の仮面』の初演。
5.この90〜93年の多彩多産ぶりは一体何なのだと驚嘆する。それは今なお続いている。多和田葉子にとってそれらの文学営為の間には、壁はないのではないだろうか。
私の脳内劇場では1990年に、実際には2018年頃に、多和田の修論の共同訳作業を開始して始動したTMP(Tawada・Mueller・Projekt)は、まずは『多和田葉子/ハイナー・ミュラー 〜演劇表象の現場』(東京外語大出版界、2019)と『多和田葉子の〈演劇〉を読む』(論創社、2020)の2巻本に結実したが、コロナ禍を挟んでもめげずに、この2021年10月末の京都芸術大学での「劇場実験」企画での公演として結実することとなった。
「アジア他言語版上演」を目指しつつ、コロナ禍で工夫変更を余儀なくされた経緯は演出担当の川口智子から、「劇場実験」としての研究会や企画会議や「フォーラム」までの経緯は中心的に主導してきた師弟コンビの小松原由里と斎藤明仁の解説をご参照頂きたい。コロナ禍のおかげで2019年のリーディング公演から、実現可能性や解釈可能性をめぐっての模索や考察、深化展開の2年の猶予・余裕の時間が与えられたことに、寧ろ感謝すべきかもしれない。ともに支えて頑張ってくださった様々な皆様にも心から感謝を!!
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『夜ヒカル鶴の仮面』の実験性
小松原由里(上智大学准教授/研究分担者)
多和田葉子の文学営為そのものに内在した演劇性を早くから指摘していた谷川道子が、その著書『演劇の未来形』(東京外国語大学出版会)で、同じく探求していたのが「演劇の未来形」へのまなざし、表象の現場への接近、さらには次世代の演劇への希望だった。TMP、つまりハイナー・ミュラーの戯曲と多和田葉子の戯曲が、その文脈において単に日本とドイツの演劇研究の裾野を広げるという矮小化された意図ではなく、多和田がミュラーを再読したように、現代の日本がいかに過去から未来へと読み直せるのかという、とてもラディカルな挑戦でもあった。恩師のこの壮大な意図を汲みとるのに不肖の教え子には時間がずいぶんかかったのだが、コロナ禍によって停止した時間のおかげで、少しずつだが咀嚼できてきたように思う。とりわけ『夜ヒカル鶴の仮面』は勤務する大学の授業でもとりあげる機会があったのだが、そこで学生たちの感性には良い刺激をもらった。なかでもそんな新たな息吹の代名詞でもある斎藤明仁さんと、恩師谷川との異世代交流が実現できたことは、実り豊かな副産物であった。TMPと、何より京都芸術大学の実験的演劇研究プロジェクトに改めて感謝申し上げたい。
2019年10月、日本では初披露となったくにたち市民芸術小ホールでの川口智子演出によるリーディング劇は衝撃だった。テクストに埋没しない言葉たちの量感を大切にしてきた作家多和田葉子の意図を、ペイント・パフォーマンス=「画」を描くことという動作で拾い上げ、お通夜の舞台に似つかわしくない登場人物の終わりのないノイズを、ラップ音楽の多声性に転換して見せた。声の要素でいえば、実際の仮面という再現手段を使用しないことで、一つの個体としての人間に宿る物語的な多重性が、声の変容のからくりのなかで顕現化されていった。亀も鶴も犬も、実際に観客の面前に舞い降りた。川口の舞台は、一人の作家の声に耳を澄ませ、その「空間と時間を演出する」ことだという。舞台化という実際現場で川口は、作家とは遠く隔たった場所で、そのテクストを再構成するのではなく、その声を再構成しているわけだ。しかしその行為は、実は研究の現場とそれほど変わりはないのかもしれない。もちろん研究者は作家研究を、観客の前で論文発表としてプレゼンテーションすることはあるかもしれないが、最終的に言葉から離れた誰かの身体、あるいはモノを通して表現することはない。しかし、作家の声に耳を澄ませることは同じ地平の出来事だ。この両者が手を組んだ時、それぞれにどんな影響関係が出るのだろうか──紆余曲折を経て、畑違いの両者が、多和田葉子の戯曲を通して同じくその声に耳を澄ませることを目的に、3度に渡る連続研究会を企画することになった(8月4日、25日、9月13日)。
プレトークでもアフタートークでもなく、演出家、俳優、批評家、研究者が一堂に会して、ああでもない、こうでもないと一つの戯曲を議論する場は、実はこれまでそんなになかったのではないかと思う。しかもこの研究会は、リーディング劇を飛び出し、上演化という共通の「お産」に向かっている。この「お産」は、二つの卵──「上演」と「フォーラム」を産むよう、川口によって企図されているらしい。戯曲『夜ヒカル鶴の仮面』の匂いたつ前衛性に負けないぐらい、本プロジェクトの企画はどこまでも実験的で多声的な試みのようだ。
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宵トモル姉の顔 ─『夜ヒカル鶴の仮面』の再読にもならない
研究者でも演劇現場の者でもない無名の(ような)私がこの場にコメントを寄せることをお許しください。
弔いの儀式は基本的に生者のためのものであって、死者のためと偽って死に後れた生者がこれからを生きるために、死者のためと口実に疎遠だった親戚友人と強引に縁を戻すために、そういうエゴイスムが暗黙の諒解として存在する。過去の清算、非日常への小旅行、へべれけ、へべれけ。
『夜ヒカル鶴の仮面』は云うまでもなく、(見かけには)姉という存在を弔っている。はじめこそ生者のためのように思えるが、しかしこの弔いは姉の言葉からも分かる通り生者のためには開かれていない。姉の死を契機に誰も対話をしており、同時に誰も「も・のろって」いる。その両面性が気づけば彼らの言葉を呪術へと変化させる原動力ともなっているようである。亡霊か生霊か或いは姉そのものか、兎にも角にも姉を呼び出す呪術である。姉さん姉さんという言葉が聲が音が(ノイズが)テクストに舞台空間に其処此処に反響する。響いて、喰って、啼いている。新たしき産聲をあげるための場所を求めて彷徨っては、それはやがて読者観客誰彼の身体に蝟集して、それでも響くことを止めない。そう云えば、弔いと出産の儀式には多くの酷似するところが見つかる。誰もが「姉さん」を妊娠することになるだろう。或いは「姉さん」から離れようとするわけにはいかないようである。寧ろ誰が離れられようか。ところで「姉さん」とは誰。
三回に亘る研究会は、研究者・批評家・演出家・俳優など様様な視点からの考察が繚乱、贅を尽くしたものであった。不意に発される言葉が中空に、けれどとてつもないエネルギーを持ってにわかに広がっていくその様は留まるところを知らない。辿り着いたのは研究と演劇現場の三日の夜。葬式をするのに結婚とは不謹慎だろうか。
未曾有の世界的危機により延期された本プロジェクトには、とびいりであったにもかかわらず素晴らしい御縁に恵まれた。研究会での全ての皆様に、またプロジェクトの母体である京都芸術大学の前衛的な取り組みに、何よりも私を推薦してくださった恩師小松原由里先生、プロジェクトの中心であり多和田演劇の導き手でもある谷川道子先生、川口智子さんにとびきりの感謝を申し上げる。また育まれた営みが連綿と続いていくことを切に願う。
最後に、極めて個人的なことであるが、1993年(日本語の初版は94年であるが)という時代に、幸か不幸か筆者はこの世に産み落とされていない。つまり、本作品の発表が「現在」であった時間を体験していない。その意味では民話とも『古事記』とも、カフカやツェランやミュラーの著作とも全く同じ地平に置かれている。だからこそ、また「無名」にも近くある私たちだからこそ、異なった海に漕ぎ出していけるのではないのだろうか。そのような役割を担っていける/そのような役割しか担っていけないのではなかろうか。波音はすぐ其処にあるのにどうしてこの海は遠いけれど、闇に脳味噌をつかまれないうちに。どうかどうか。
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多言語の夢〜『夜ヒカル鶴の仮面』上演に向けて〜
川口智子 (演出家)
知らない言語を聞くのは楽しい。電車の中でも、道端でも、夢の中でも、馴れない音やリズムが聞こえてくると思わず聞き入ってしまう。目を閉じて街を歩くのに似ている。触れたものが何かを知りたいというよりは、そのものに出会った感触だけを楽しむ。言葉が意味から離れて、音楽と声になる時。
2012年ごろから想い描いてきた多言語の演劇と、多和田葉子さんの戯曲『夜ヒカル鶴の仮面』が結びついたのが2019年の夏。アーティストたちと稽古場で言葉を探しながら多言語の上演を目指そうと、タイの俳優・バム(Setsiri Nirandara)、マレーシアの音楽家・フィッシュ(Lim Yun Xin)、香港のダンサー・テリー(曾景輝)、そしてここ数年たくさんの上演を一緒につくってきた滝本直子と5人で京都に滞在制作するプランをつくった。“劇場実験”という可能性の元に、めちゃくちゃに散らかった言葉のおもちゃ箱のようなお通夜の演劇をつくろうと思った。弔いの仕方を忘れてしまった人たちが、その言葉を探す旅。
新型コロナウィルスの世界的な感染拡大を受けて、企画を2020年秋から2021年の秋に延期し招へいの可能性を待った。実現のためにどういう状況を整えるべきか、京都芸術大学舞台芸術研究センターのみなさんの心強い併走をいただきながら、アーティストたちと連絡をとり続けた。入国に向けての準備もしていた。しかし現状では日本に来てもらうことは難しいと判断し、今年の秋の上演に向けては国内にいるメンバーで制作をすることに決めた。不安定な状況の中で、企画実現に向けて動いてくれた企画協力者たち、紹介者の方々、そして多言語版プランを楽しみにしてくださり、国内盤の上演に向けても応援のメッセージをくださった多和田葉子さんにあらためてお礼を伝えたい。
結論をギリギリまで引っ張りながら、引っかかっていたのは“多言語”ということだった。企画に掲げたキーイメージがこの1年半ですっかりその性質を変えてしまったことに戸惑っていた。私にとって多言語の演劇とは謎解きのような不思議な魅力を持つ遊びの演劇だった。わからない言葉、美しい響きの中でどこか違う方向に紛れ込んでしまってもいい、多和田さんの小説を読んでいる時のよう。ところが、今、多言語にはその朗らかな遊びのイメージがなくなり、代わりに人の属性を切り離して消費するような嫌なラベルのようなものがべったりと貼られたように感じて、息苦しく思うようになった。しばらく、このイライラが続くだろう。
不安と息苦しさを抱えたまま、友人たちと連絡をとりはじめた。「ちょっとお願いがあるのだけど、今、多言語の劇の準備をしてるんだけどね、アーティストを呼ぶのが難しくなりそうで、それで、オンラインでお葬式と乾坤式についてのインタビューをしたいのだけど……」とメッセージを送る。「結婚式場でカメラマンをやってたって知ってた?」とか、「じゃあ、日本のごはんを画面越しに準備しておいてね」とか、そんな返事をもらう。東京で、沖縄で、香港で出会った人たち。どこか別の場所、たとえばシンガポールや韓国や台湾でまた会って、一緒にご飯を食べる人たち。行ったことのない部屋の風景を見ながら、近づけない距離を感じながら、知っていることを話してもらうというよりは、弔いという行為が何を必要としているのか、婚礼という行為が何を意味しようとしているのか、一緒に考える時間。町の中で結婚式を見かける? 通りかかったら何かすることある? じゃあ、お葬式は? お隣の人が亡くなったって、どうやってわかる?
同時に、この「演劇実験」の醍醐味である研究チームとのやり取りも活発になった。研究代表の谷川道子先生には企画全体を力強く引っ張っていただき、小松原由里さんと斎藤明仁さんのスピーディーかつスリリングな進行で、「多和田葉子の演劇」をめぐる研究会が始まった。オンラインで時を共にしながら、戯曲『夜ヒカル鶴の仮面』を解きほぐし謎を楽しむ。これから制作に取り組む俳優たちにも加わってもらい、通常の稽古開始前では考えられないほど多くの人と対話をしながら、このプロセスがもう「つくる場」」になり始めている。
ないものをつくろうとするうちに、つくっているのはつくる場そのものだったことに気づく。今、その場は、人の死と向き合うための弔いの場でもある。ひとつの言語だけではわからなくなってしまった弔いの言葉を探すのは生者の劇場かもしれない。
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【劇場実験】『夜ヒカル鶴の仮面』
日時:2021年10月30日(土) 16:00 開始
会場:京都芸術劇場 春秋座搬入口
作 :多和田葉子
演出・美術:川口智子
出演 :滝本直子(劇団黒テント)
武者匠(劇団 短距離男道ミサイル)
中西星羅
山田宗一郎
映像 :北川未来
舞台監督 :横山弘之(有限会社アイジャクス)
上演アシスタント :奥田知叡(京都芸術大学大学院)
企画協力:Original Collaborator:Lim Yun Xin(作曲家・音響家/マレーシア)、Setsiri Nirandara (俳優/タイ)、曾景輝(振付家・コンテンポラリーダンサー/香港)、滝本直子(俳優/日本)
インタビュー協力:黄飛鵬(映画監督/香港)、Benjamin Ho(Paper Monkey Theatre/シンガポール)、Ladda Kongdach(Crescent Moon Theatre/タイ)、Sandee Chew(俳優/マレーシア)、桂薛媛元(立教大学大学院/中国)、黄丹丹(立教大学大学院/中国)、周浚鵬(俳優/台湾)、林孟寰(劇作家、演出家/台湾)、鵜澤光(能楽師・銕仙会/日本)、鄭慶一(ディレクター/在日韓国人3.5世)、崔貴蓮(韓服「蓮yeoni」/在日韓国人3世)、王侯偉(粵劇俳優/香港)
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【フォーラム】「多和田葉子の演劇」
日時:2021年10月31日(日) 13:00 開始
会場:京都芸術大学 ロビー
登壇者:谷川道子(東京外国語大学名誉教授)
土屋勝彦(名古屋学院大学教授)
小松原由理(上智大学准教授)
谷口幸代(お茶の水女子大学准教授)
關智子(早稲田大学非常勤講師他)
和田ながら(演出家)
川口智子(演出家)+劇場実験出演者
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日時:2021年10月30日(土)/31日(日)
会場:京都芸術劇場 春秋座搬入口&ロビー
料金:入場無料(劇場実験・フォーラムとも/定員あり/要予約)
2021年10月1日(金)よりご予約開始
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主催:学校法人瓜生山学園 京都芸術大学<舞台芸術作品の創造・受容のための領域横断的・実践的研究拠点>2020年度劇場実験Ⅰ(延期分)「多和田葉子の演劇 ~連続研究会と『夜ヒカル鶴の仮面』アジア多言語版ワーク・イン・プログレス上演~」研究代表者:谷川道子
協力:公益財団法人 くにたち文化・スポーツ振興財団、上智大学 ヨーロッパ研究所