谷川道子ブログ

東大大学院修了(ドイツ演劇)。東京外国語大学教授。現在、東京外国語大学名誉教授。

『多和田葉子/ハイナー・ミュラー 〜演劇表象の現場〜』 ついに刊行!

 2019年春に何とか始動したTMP(多和田/ミュラー・プロジェクト)。さまざまな探りやパフォーマンスをはさみつつ、コロナ禍の中断などもありながら、必死でここまでやって来れた。様々な方の援助を得る中で、その1年間の集大成としての思いを込めて、ついに東京外語大からこの10月30日に刊行を迎えたのが、本書である。総ページ500頁、ミュラーの墓前での多和田葉子の最新の写真を表紙として、渾身の思いで装丁してくれたのが、宗利淳一氏。ぜひ手に取って堪能して頂ければと---。11月中にはさらに、『多和田葉子の〈演劇〉を読む』が、論創社より刊行の予定である。2冊の「多和田演劇ペア本」として、楽しんで欲しい。30年の思いはこの2冊に込めた感があり、さらに重ねる言葉もないくらいなので、本書『多和田/ミュラー~演劇表象の現場』の冒頭に置いた「はじめに」をすべてへの導入として、再録させていただく。ぜひご購入を!

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『多和田/ミュラー~演劇表象の現場』

 何故、ハイナー・ミュラー多和田葉子なのだろう。 

 かたや、今はなき東ドイツブレヒトの後継者として、東西体制の壁と文学や演劇のジャンルの壁をともに根底から揺るがして逝った劇作家ハイナー・ミュラーM。かたや二二歳からドイツに渡り、ドイツ(語)と日本(語)の間を壁ぬけするように文学活動を自在に展開し、いまや世界を「ミツバチ葉子」のように飛んで受粉させていく多和田葉子T。この両者の間にどういう関係性の糸が紡がれているというのだろうか。

 アリアドネの導きの糸は、やはり『ハムレットマシーンHM』だ。ミュラーが1977年に『ハムレット』のドイツ語訳上演台本を頼まれて東ベルリン・ドイツ座で上演されたが、「強迫観念」への鬼子のように生まれて西ドイツの演劇雑誌に発表され、「これ、何だ?」と地下浸透のように演劇の根底を揺るがしていったわずか三頁弱の謎の塊のような〈戯曲〉? 「私はハムレットだった」…

 「あ、これだ」と引っかかったのは、多和田葉子も同じだったらしい。しかもあのベルリンの壁まで揺れて壊れた1990年に、ハンブルグ大学での修士論文として書き始めたのが「ハムレットマシーン(と)の〈読みの旅〉」だ。92年に書き上げて九三年に文学修士となった。しかも同じ年にその間に並行して書き上げていた『犬婿入り』で芥川賞受賞! 「何、この凄さ?」と驚かされる。 

 このアリアドネの糸にも導かれた。多和田の修論ハムレットマシーン論」を30年近くも抱え込んで、やっと2019年に共同邦訳して、両国はシアターXでの晩秋のカバレットで『ハムレット・マシーネ~霊話バージョン』まで演じて貰えることとなった。「わたし だった ハムレット/わたし 立った 湘南海岸…」。この二つを合わせ鏡にして、その間の窓からTとMの〈演劇表象の現場〉を考えられるのではないかと思い立ったのが、…TMP。

 

 本書は、そういった謎解きへのチャレンジである。全体の構想は次の通り。

 「序」で、多和田TとミュラーMのおおよその関わりを描述する。

 第Ⅰ部「Relektre/再読行為としての〈読み〉」では、その多和田葉子修士論文ハムレットマシーン(と)の〈読みの旅〉』全邦訳と、それに多和田が書下ろしたエッセイ「私が修論を書いた頃」。そして、それらを受ける形で気鋭の八名の論者にTとMをめぐっての自在な論考を開陳していただいた。旧来の文学規範を超える両者の位相が、万華鏡のように煌めくようだ。

 第Ⅱ部は「Homo Theatralis /TMP (Tawada/Muller/Projekt) /演劇表象の現場から」。TMPは、再読行為である演劇実践の現場との呼応・表象関係の中で、TとMの展開とその射程を現在形で測るべきプロジェクトとして構想された。始動と大枠は2019年春からのやなぎみわ巡回展『神話機械』で、中核が多和田葉子のカバレット『ハムレット・マシーネ~霊話バージョン』の上演台本と、若い世代の多和田演劇上演の演出ノート。コロナ禍もあって、劇団地点のユニークな『ハムレットマシーン』の台本抜粋と、最後はやなぎのMM(MythMachines)の上演台本で締めくくられることとなった。

 

 演劇性とは本来が相互理解と発話・対話・表象のためのものであり、人間には必須必要であるという思いが、〈ホモ・テアトラーリス〉という語には込められている。コロナ禍のいまなおさらに。演劇表象と人間の在り方へのより自在で拓かれた可能性の追求という課題だろうか。

 

 

東京外国語大学出版会