谷川道子ブログ

東大大学院修了(ドイツ演劇)。東京外国語大学教授。現在、東京外国語大学名誉教授。

青年座の永井愛作『見よ、飛行機の高く飛べるを』を観て

青年座の永井愛作『見よ、飛行機の高く飛べるを』を観て

 先日、下北沢の本多劇場で、青年座の永井愛作『見よ、飛行機の高く飛べるを』を観てきた。いろいろ考えさせられたのだが、整理を兼ねて3点だけ。
 まずは、劇団創立60周年記念公演第一騨、だということ。思えば60年前のこの頃が、戦後新劇の最盛期。新劇の成立を1906年自由劇場とするなら、その半世紀後だ。文学座の結成は1937年、劇団民芸が1950年。1944年に結成された俳優座は49年に養成所を設立、以降1967年の18期まで600人余の卒業生を輩出し、その3期生あたりから、東京演劇アンサンブルTEE、劇団新人会、仲間、青年座などが劇団をつくり、それぞれの演劇活動を模索していった。戦後もブレヒトを始め、ベケットウエスカー、オズボーン、フリッシュ、ヴァイス、アーサー・ミラーといった海外戯曲の紹介や上演も盛んだったが、やはり日本の演劇を、という機運は大きかった。何をどう上演しようか…そういう手探りの中で、各劇団の独自性が作られていったのだと思う。1965年から大学生となって演劇に目覚めた私は、卒論でブレヒトの教育劇を取り上げつつ、眼の間で上演される舞台を追っかけたものだ。その後60年代後半から、明確に西欧劇受容追随の新劇に反旗を翻して、アングラ演劇が登場してきた。紅テント、黒テント天井桟敷、早稲田小劇場…彼らは自前の戯曲と演劇方法論、テントという移動劇団として、世界の演劇シーンまでかけめぐった。その後は、劇作家/演出家の名を冠した野田秀樹夢の遊眠社渡辺えりの劇団三〇〇、永井愛+大石静の二兎社、坂手洋二燐光群などの小劇団が輩出していった、というのが異論もあろうが、ざっくりした見取り図だろうか。
 そして今年、TEEはブレヒトの『屠畜場の聖ヨハンナ』で60周年記念を、仲間は『森は生きている』や『星の王子様』の児童演劇路線を打ち出し、創立77周年の文学座は、今年が生誕450年のシェイクスピアにちなんで、1年をかけてさまざまな角度からのアプローチでの「シェイクスピア祭」を開催すると聞く。
 いま、どの劇団も状況は厳しい。ドイツには各都市にいくつも公立劇場があって、劇場=劇団、つまり俳優も裏方も公務員で、その演目は議会の話題にもなるし、切符代は費用の三割と言う演劇王国だ。日本では、演劇活動で暮らしていくのも大変。戦後しばらくは、全国演劇鑑賞団体連絡会議(演鑑連、いわゆる労演や市民劇場)がさかんで、それの演目に載って全国を巡演することが大きな支えとなった時期もあったが、今ではそれも中々。テレビや映画の巨大資本やマスコミを相手に、どの劇団も生き残りと世代交代を模索中、というところだろうか。

 第2点は、そういうなかで青年座が取ってきたスタンスだ。当時、どの劇団も劇場や稽古場もなく、あちこち使用料を払ってさすらっていた。だから青年座は頑張って代々木八幡に劇場を作り、劇場と劇団を提供して、自分のやりたい企画を劇団員が経済的な責任をすべて負って上演するというスタジオ公演を重ねたという。それがやはり実を結んだのだろう、「創作劇の青年座」として日本の劇作家を育て、日本の演出家、俳優、演劇の歴史をつくりあげてきた。実は私はいくつかを例外として、青年座やその他の日本の舞台をそうフォローはしていない。ウイーン大学客員教授から帰国後に、お礼奉公のように独文学会の理事や勤務先大学の執行部に選ばれたという経緯もあったが、選ばれたら拒否権のない選挙制度で、組織員の務めと覚悟はきめたものの、それは定年退職まで続いた。最初にあきらめたのが劇場通いだった。

 ロビーで「ある演劇制作者の記録」という副題を持つ水谷内助義著『劇を。』という本を見つけて、売っていた若い青年に、この本で青年座の歴史が分かるのかな、と水を向けたら、いいえ、もっともっと演劇への熱い思いや理想が伝わってきます、と元気な答。あおられて帰路に読みふけった。水谷内さんは41年間、青年座の制作を支えつづけてきた方だ。舞台は上演まで実に手間暇金のかかるコストパフォーマンスの高いライブアートである。そしてお客さんが来てくれて、はじめてナンボ、という世界。本書は1992年から公演の都度、観客宛てに「ご挨拶」として送った文章の集大成とか。観客へのサービスもきめ細かい。いま必要なのは、表の舞台を裏の縁の下で支えて、劇団のポリシ-や想い、理念をまとめて丁寧に観客に伝えてくれる、こういう制作者なのだろうと思う。日本新劇制作者協会会長もつとめておられるという。劇場法はできても先は長い、見通しも甘くない。でもこういう熱い思いの老年や青年のいる劇団は大丈夫だろう。

 第3点は、永井愛さんのこの作品について。
もちろん彼女の芝居はいくつも観ているが、この作品が1997年に青年座に書き下ろされたときは観る余裕はなかった。観客に依る「The青年座ニュース」という支援団体でもう1度観たい作品を募ったらこの作品が選ばれて、60周年記念の第1騨になったという。
そう、観客の意向を尋ねつつ、1回限りでなく何度も再演される劇団のレパートリーを作ってほしい。ピナ・バウシュの舞踊団がやったように。それには装置や衣装などの倉庫も必要。ベルリン・オペラ座で最も高い費用が倉庫代だとか?

 舞台は1911年の岡崎にある女子師範学校平塚雷鳥の「青鞜」も世に出て、明日への気概に燃える女の子たちは、「空を飛ぶなんてことが実現するんですよ、女子もまた飛ばなくちゃ、ならんのです」――そうか、宮崎駿の『風立ちぬ』の女性版なのだ、空を飛んだということはそれだけ夢をかきたててくれることであったのだ。それが結果的に軍用機になろうとも…。女子たちは、厳しい学則や学生の放校処分に抗してストライキまで企画するが、結局切り崩され、「バード・ウイメン」という雑誌をつくる…といった群像劇なのだが、永井愛は人物の本音と建前をコミカルに浮かび上げるのがうまい。面白いのは、永井愛の105歳のお祖母さんが夜な夜な語った話が素材になっているという。1学年下に市川房江さんが居て…
どこかの話と似ているなと思ったら、もっかNHKの朝の連続ドラマの『花子とアン』も同じ時代だ。山梨の寒村から向学心と想像・創造力に燃えて東京の女学校に進学した安東ハナが、戦争をはさんで、柳原白蓮のエピソードもからめつつ、カナダの作家モンゴメリの『赤毛のアン』などの翻訳家村岡花子になるまでの話。これも孫の村岡恵理の聞き書きの伝記をもとにしている。あの頃の女子は、今よりもっと元気だった。
 もう一人付け加えさせてほしい。我が姑・鷲山順さん。彼女は1907年に掛川の旧家に生まれ、見附の女学校から津田塾大に進んだ。東京女子医大をつくった遠縁の吉岡弥生さんの家に寄宿して、夜に脚をもみながらいろんな話を聞かせてもらうのが楽しみだったという。しかし、弟が結核になって郷里に看病のために帰らざるを得なくなり、志半ばで退学して田舎に戻った。英語が大好きで、向学心に燃えていた姑は、さぞかし無念で悔しかったことだろう。看病の甲斐なく弟はなくなり、自分も結核になって療養、しかし愚痴ることもなく40歳近くになってやっと結婚して、さずかった大事な長男まで中三で結核になり、本当に命がけで看病して元気にした。
 その嫁が私である。84歳で同い年の舅が他界して、東京の家に引き取ることになった。2LDKの小さなマンションだ。仕事は続けると覚悟を決め、夫婦別姓も貫き、最初はどうなることかと七転八倒しながら頑張って、互いの関係を探りつつ、でもヘルパーさんも味方にし、そのうち私の背中を押してくれる最大の同志・戦友となった。彼女自身の悔しかった思いも含めて、あの時代の大正デモクラシーが背骨になっていたからだと思う。そのおかげをこうむったのが私、というわけだ。彼女もぼけ始めたころには女学校時代の話を何度も繰り返した。もっとも輝いていた時代だったのだ。101歳で大往生した。

 そんなこんなを身につまされる形で考えさせてくれるのが、やはり日本の演劇だろうか。いや、もはや日本の演劇vsドイツや外国の演劇といった二者択一の発想こそが無益なのだ。
ただ一言、劇を。