谷川道子ブログ

東大大学院修了(ドイツ演劇)。東京外国語大学教授。現在、東京外国語大学名誉教授。

『メイエルホリドとブレヒトの演劇』

『メイエルホリドとブレヒトの演劇』

 

この間の2016年に力を注いだ仕事としては、『メイエルホリドとブレヒトの演劇』があります。ずっと抱えてきて、2016年11月に玉川大学出版部から上梓されました。内容と経緯については、その「訳者あとがき」に触れられているので、了解を得て、そこから借用させていただきます。

 

 

『メイエルホリドとブレヒトの演劇』――訳者あとがき

 

 本書はKatherine Bliss Eaton, Theater of Meyerhold and Brecht, Westport; Greenwood Press, 1985の全訳である。キャサリン・ブリス・イートンは、ソヴィエト演劇と文化の研究者で、本書のほか、著書にKatherine Bliss Eaton, Daily Life in the Soviet Union, 2004、編著にEnemies of People: The Destruction of Soviet Literary, Theatre and Film Arts in the 1930s, 2001がある。

 『メイエルホリドとブレヒトの演劇』の原著は一九八五年にイギリスで出版された。これまで各国の演劇史研究の論文でたびたび参照、引用され、一九二〇-三〇年代の文化史研究において基礎文献の一つとなっている。日本では、本書の編訳者の一人である谷川が、当時『新日本文学』誌の編集長で、御茶の水書房の編集者でもあった久保覚氏からこの本の翻訳を依頼され、早い段階で全訳を行っていた。ところが、久保氏の急逝など諸事情が重なり、その訳稿は筐底に眠ったままになっていた。それ以来、長い年月を経て、二〇一〇年に早稲田大学演劇博物館「演劇映像学拠点」の主催でシンポジウム「メイエルホリドと越境の二〇世紀」(研究代表者、上田洋子)が開催されたことをきっかけに、本書の翻訳計画が再び持ち上がった。このタイミングでシンポジウムに参加していた伊藤愉にも声がかかり、最終的に谷川と伊藤の二人で翻訳を担当する形で今回の出版に至った。

 

 本書の特徴は、タイトルの示す通り、二〇世紀を代表する二人の演劇人、フセヴォロド・メイエルホリドとベルトルト・ブレヒトの演劇実践を関係づけているところにある。いみじくも、イートンが序章で述べているように、一九二〇-三〇年代、世界演劇において名を馳せていたのはブレヒトよりも圧倒的にメイエルホリドだった。ブレヒトに限らず、多くの演劇人たちが肯定・否定の違いはあれど、彼の影響を受けていたのである。ところが、周知のようにソ連時代にスターリンの粛清の嵐が吹き荒れ、メイエルホリドの名は歴史から抹殺され、その存在自体が無きものとされてしまった。一九五五年の名誉回復、そして一九六〇年代のメイエルホリド研究の第一次興隆を経て、彼は再び歴史に戻ってきたが、それでも依然として正当な評価を受けているとは言いがたい。イートンの狙いは第一に、ブレヒトの先駆者として位置付けることで、こうしたメイエルホリドの復権を試みることにあった。もちろん、このような問題意識はイートンがこの本を著した一九八五年時点のものであり、その後ソ連崩壊を経て、多くの情報が公開され、メイエルホリドの活動の実際は次第に明らかになってきている。しかし、日本に目を向けた場合、この問題意識は依然として有効であることは明らかだろう。

 かたやブレヒトは、現代演劇はブレヒト抜きでは語れないと言われるほどに、第二次大戦後、世界中である種「熱狂的に」受け入れられた。「ブレヒトの時代」とでも言うべき現象である。戯曲(ドラマ)と上演(シアター)両極での「叙事的演劇」、「異化効果」など、二〇世紀演劇のキーワードとなる手法を編み出したとされている彼の仕事は、一九六八年からは西ドイツでもシェイクスピアをしのぐ最多上演作家になり、日本でも一九六〇-七〇年代に翻訳・紹介・上演が相次いだ。あるいは単なる作品の受容を超えた「ブレヒトなきブレヒト受容」と言われるような方法論的革新の契機として、一九七〇-八〇年代には世界中で劇作家にも演出家にも、果てはピナ・バウシュの「タンツ・テアター」にも影響を与えた。八〇年代後半には逆に、「ブレヒト疲れ」という言葉が流行語になったほどだ。だが、イートンの主張に従えば、こうした世界演劇史においてブレヒトの「発明」として受け入れられてきた多くの試みが、それに先立つメイエルホリドの実践に確認できるのである。こうした歴史的に後発のブレヒトに対して、本書では、やや皮肉まじりに「《偉大な》借用者(“great” borrower)」という表現があてられている。見方によっては「剽窃」とも受け止められかねないこの表現が意味するところは、しかし、決してネガティヴなものではない。イートンは、アイデアの源泉を指摘しつつも、ブレヒトの業績をメイエルホリドの発明に還元するのではなく、その独自の展開におけるオリジナリティを論じ、二人の演劇人の創作の価値を伝える。両者の手法を具体的に参照し、紹介しながら論じるイートンの記述からは、たしかにブレヒトの実践における「メイエルホリド的要素」を確認できる。だが、その一方で〈借用(あるいは剽窃)/受容〉とその独自の展開は、伝統演劇に想を得て新しい演劇を構想したメイエルホリドにも見られる側面であり、そもそも歴史とはそのように更新されていくものである。こうした受容史は、例えば二〇世紀後半にブレヒトとメイエルホリドの方法を継承したロシア人演出家ユーリー・リュビーモフにもしばしば指摘され、また、日本の鈴木忠志が「本歌取り」と名付けるコラージュの方法も、あるいはハイナー・ミュラーが『画の描写』(一九八四年)の注の中で「補筆彩色(Übermalung)/レイヤー」と呼んだ手法も同様だろう。

 イートンの記述が興味深いのは、こうしたメイエルホリドとブレヒトの関係を、ロシア、ドイツ両国の文化交流史というべき人間関係の中に描き出そうとしているところである。これが本書のもう一つの特徴だろう。たしかにイートンは、メイエルホリドとブレヒトという具体的な名前に限定して論を展開している。さらに言えば、本書で言及されるブレヒトは「演出家ブレヒト」であり、劇作家としての彼の側面は敢えて掘り下げられていない。しかし、こうした個別具体的な演出手法の比較、考察の先には、二〇世前半における重要な文化的コンテクストが拓かれている。この時代の交流史は一方では左翼人ネットワークがあり、また他方では亡命知識人らのネットワークがあり、きわめて広範で複雑だった。本書に登場するベンヤミン、ルナチャルスキー、アーシャ・ラツィス、トレチヤコフといった関係者たちは、そうした交流史において重要な役割を果たした人物たちで、メイエルホリドやブレヒトは、互いに直接的な言及は少なくても、こうしたネットワークの中で確かに近接していたのである。

 実際、一九二〇年代のドイツ・ロシア文化圏における相互交流は実に驚くべきものだった。例えば、メイエルホリドについては、次のような補足も可能だろう。メイエルホリド自身は、国外での上演がやや遅れたこともあり、とくにドイツでの受容に関しては、カーメルヌイ劇場の演出家タイーロフの後塵を拝した。しかしその一方で、イートンが指摘しているように、彼の演劇実践はドイツを代表する演劇人ピスカートア(彼もまた、国際革命演劇同盟(MORT)で活動しており、一九三一年から一九三六年にはモスクワに滞在していた)の思想、演出手法にも影響を与えていた。またメイエルホリド自身も、一九二〇年代後半から一九三〇年代にかけて構想していた未完の新劇場建設プロジェクトの設計において、ピスカートアの盟友でありバウハウス初代学長であったドイツ人建築家ヴァルター・グロピウスがピスカートアのために設計した「全体劇場」の影響を受けていたという指摘もある。あるいは、メイエルホリドが歌舞伎をはじめとする日本演劇の影響を受けていたことはよく知られているが、革命前の時代から彼はそうした情報を主にドイツ語の書物から得ていた。革命後にも、一九二五年にはドイツ人演出家、演劇批評家のカール・ハーゲマンの東洋演劇に関する書籍『諸民族の演技』(ドイツ語の原書は一九一九年出版)が三巻本でロシア語へ翻訳出版されるが、その第二巻は日本演劇に関する内容で、メイエルホリドの近くにいた人間たちはこぞってこの本を読んでいた。

 さらに言えば、近年、主にエリカ・フィッシャー=リヒテ(邦訳、『パフォーマンスの美学』論創社、二〇〇九、『演劇学へのいざない』国書刊行会、二〇一三年)らの活動により再評価を受けているドイツ人演劇学者マックス・ヘルマン(一八六五-一九四二)の「演劇学」創設の活動も同時代的にロシアに影響を与えていた。ロシアでは一九二〇年代にレニングラードの芸術史研究所演劇部門を中心として「演劇学派」が立ち上がるが、これはヘルマンの「戯曲ではなく上演」を分析対象とする「新しい学問としての演劇学」という思想をロシアなりに受容したものだった。このロシア演劇学の活動の中心にいたのが、アレクセイ・グヴォズジェフ(一八八七-一九三九)という演劇史学者で、彼こそがしばしば激論を呼び起こしたメイエルホリドの演劇活動を理論的に支えた、演出家にとって最も信頼のできる批評家、理論家だった。

 このように、二〇世紀前半において世界の演劇を牽引したドイツとロシア両国は互いに影響を与えあい、そうした文化的背景を背負いながらメイエルホリドとブレヒトは活動していたのである(そして、こうした文脈のなかに千田是也佐野碩土方与志村山知義、そして小山内薫といった日本人たちが入り込んでくる)。それゆえ、イートンが述べるように、ブレヒトの「異化効果」という用語がロシア・フォルマリズムに由来するもので、それがセルゲイ・トレチヤコフを通じてブレヒトの演劇理論へと移入されたことなど、彼女の主張の多くが十分な説得力を持っている。ソ連崩壊後の私たちには、ソ連時代は「鉄のカーテン」があって、すべてが遮断されていたイメージが強いが、一九二〇年代、そして三〇年代においてもなお、情報や人的な交流が活発になされていたことをあらためて問い直すことは、この時代の世界の文化・芸術地図を正しく把握するために重要だろう。

 四半世紀前の一九八五年の著作として、現在から見れば、本書は情報の不足や誤認、またそれに起因する論証の甘さなども指摘できる。とはいえ、トレチヤコフやアーシャ・ラツィス、ベンヤミンら、ロシア演劇に関するブレーンたちがブレヒトに提供した情報を丹念に追いながら、個々の作品や演出方法を例にとってブレヒトとメイエルホリドの新しさと面白さを示してくれる本書は、二〇世紀を代表する二人の演劇人の活動を、歴史的事実から読み解く格好の入門書ともなってくれるだろう。冒頭でも述べたように、メイエルホリドとブレヒトの接続を的確に捉えた本書は、現在でも各国の演劇研究で参照され続けている。その意味では時代を超えて読まれる価値が本書にはあり、基礎文献としての意義を十分に有している。

 

 本書の構成は、第一章でブレヒトのメイエルホリド演劇との出会いに触れ、第二章と第三章でメイエルホリドの演劇について、第四章でそのブレヒトなりの受容を語り、最後の第五章で、メイエルホリドの先駆性を改めて主張しながら、両者の時代的な革新性を指摘するに至る。これに加え、本書では、この間のいきさつを踏まえて、イートンの記述への補足・展開として編訳者の谷川と伊藤に、演劇批評家の鴻英良氏を加えた三つの論考を添えた。

 それぞれ、谷川道子「現代演劇へのパラダイム・チェンジ――メイエルホリドとブレヒトベンヤミンの位相」は、一九二六年に上演されたメイエルホリドの『査察官』を基軸に、二人の演劇人にベンヤミンを介在させ、ブレヒトベンヤミンの相関関係を、時代の変遷を押さえつつ解説している。伊藤愉「現実を解剖せよ――討論劇『子どもが欲しい』再考」は、ブレヒトと最も親しかった作家セルゲイ・トレチヤコフの戯曲『子どもが欲しい』を、メイエルホリドの上演計画とともに紹介している。鴻英良「叙事詩と革命、もしくは反乱――メイエルホリドとブレヒト」は、革命後、ソヴィエト最初の戯曲と言われるマヤコフスキー『ミステリヤ・ブッフ』を中心に、叙事詩における「革命を記述する」機能を読み解き、イートンとはまた異なる視点からメイエルホリドとブレヒトの連関を論じている。なお、鴻氏には、訳文に関しても細かいご指摘をいただいた。この場を借りて御礼申し上げる。

 いずれの論考も、一九八五年の出版から現在にいたるまでに明らかになった事実などを補足情報として取り入れつつ、読者にとってイートンの本文を読む上で補助線となることを意識して(しかし、それぞれの論者の立場を保ちつつ)記した。時代背景の事実、情報もそれぞれの論者が記述しているため、イートンが扱う時代の厚みと複雑さを少しでも味わっていただければ幸いである。

 二〇世紀初頭の激動の時代を生きた二人の演劇人は、ともに演劇と社会との関係、演劇が社会に与える影響、あるいはある時代において演劇を行うことの意味を問い続けた。本書には、しばしば「民衆」あるいは「大衆」と訳しうる用語(people / public / masses)が登場する。しかし、これらの用語が意味するところは必ずしも明確ではない。それは、もちろんイートンの瑕疵ではない。メイエルホリドとブレヒトの時代、「大衆」、「民衆」そして「観客」という言葉は、様々な意味を帯びながら多様に用いられた。その意味が揺れ動くなかで演劇を行うことこそが、演劇と社会の関係を問うことでもあったと言えるだろう。そこに答えは当然ない。しかし問わずにはいられない状況に彼らは生きていた。私たち一人一人がいま現在も「大衆」、「民衆」であるならば、その存在自体を問うた演劇人たちの活動を私たちが再度読み直すことは、同じ問いを今の私たちもまた投げかけられるということでもある。それゆえ、本書が、単なる時代考証の研究成果としてだけではなく、確かなアクテュアリティを持って、読者の方々に読まれることを願ってやまない。

 

 なお、訳出に際しては、イートンが引用しているロシア語、ドイツ語の原文に当たれるものは、極力原文を参照し、イートンの文意が損なわれない範囲で、適宜原文の文脈をなるべく拾いあげるようにした。また情報の単純な誤り、頁数の誤表記などに関しては、特に断りがない限り、訳出の際に訂正を施している。基本的に谷川がかつて訳してあった原稿を元に、改めて伊藤と谷川で全面的に見直しを行った。ドイツ、ロシアそれぞれの国、言語における細かい事実確認等は谷川、伊藤がそれぞれの専門を担当しつつ、何度もやり取りを重ねたが、不備、不足もあるかもしれない。その責任は両者にある。お気づきの際はご指摘、ご教示いただければ幸いである。

 最後に、本書出版計画のきっかけとなったメイエルホリド・シンポジウムを企画してくださった上田洋子さん、煩雑な編集作業を引き受けてくださった竹中龍太さん、装幀をしていただいた宗利淳一さん、そしてなにより、本書の意義をご理解いただき、出版の機会を与えてくださった玉川大学出版部の森貴志さんと相馬さやかさんに心よりの感謝を申し上げます。

 長い年月をかけてようやく本書の日本語訳を刊行できることとなったことは望外の喜びで、この先の若い世代、次の世代の読者の方々に末長く愛される本となりますよう。

 

 二〇一六年初夏                                         

                            谷川道子、伊藤愉

岸田理生と「リオフェス」のこと 

 

テアトロ エッセイ 2016年11月号

 個有性と共有性のポリフォニー空間

岸田理生と「リオフェス」のこと 谷川道子

 

              

 何故か、これまで『テアトロ』誌にはご縁がなかった。一九三四年創刊という日本演劇界の最老舗の演劇月刊誌――この厳しい出版状況のなかでの奮闘振りに敬意と称賛を抱き続けてきたのだが、ドイツ演劇専門を自認してきたせいか、そういう巡り合わせだったのでしょう。今回ご縁を頂いたので、「リオフェス」について書かせていただきます。

 

劇作家岸田理生

リオとは岸田理生(1946-2003)――ご存じない方のために少しだけ紹介を。一九七四年に演劇実験室・天井桟敷に入団。寺山修司(1938-83)の弟子・共働者として劇作活動を開始。この出自は『身毒丸』や『レミング』などの寺山後期の作品は共作とされるほどの筆力を岸田に与えただけでなく、自らを他者のまなざしで異化し相対化する寺山ゆずりの複眼と骨太の姿勢をも遺し、寺山の天井桟敷とともに『奴婢訓』などのヨーロッパ公演にも参加。アングラ演劇運動の最盛期を共体験しつつ、七〇年代末から「女性も書きたい」と寺山の許可を得て独自の活動を開始。七八年には哥以劇場を創立し、『捨子物語』『夢の浮橋』などの戯曲を発表。八一年には岸田事務所を設立、八三年の寺山の死をはさんで演出家和田喜夫と組んで「岸田事務所+楽天団」を結成。八四年に初演された『糸地獄』は大成功作となって岸田戯曲賞を受賞。文字通りの代表作となり、再々演や九二年の海外演劇祭への招聘も。それまでの岸田理生の演劇活動の集大成であるとともに、岸田と日本演劇の八〇年代半ばでのある種の到達点/行き止まりと、さらには転換点の必然性も暗示していたのかも。

 

舞台は昭和一四年の糸屋、表は紡績工場、裏は娼家、あいだにイエの聖家族、そんなからくりの嘘で紡いだ日本の近代、そこに少女繭が海からやってきて、「ここはどこ?私は誰?どこから来てどこに行くの?」と問いながら絡み取られていく。糸引き糸切り糸地獄、女たちの死に顔の、いまなお風呼ぶ糸地獄、真正面から女であることと日本の近代を併せ問うた。―「女性を書きたい」、それを流麗な七五調の台詞やからくり芝居の歌舞伎的世界に託して見せるうまさ。他に岸田は『終の栖・仮の宿―川島芳子伝―』『私たちのイヴたち』『恋 三部作』など多作、八〇年代は秋元松代以来、如月小春、永井愛、渡辺えりこ、など女性劇作家が輩出してきた時代でもあったが、『糸地獄』はそれらを骨太に引き受ける八〇年代を代表する華麗な作品で、終着駅で転換点でもあっただろう。『糸地獄』の最後の打ち上げに参加された太田省吾さんが、「俺、こういうのはもういいかな」と呟かれたのを理生さんも聞いていた。理生さん自身が転機の出口を探っていたのだと思う。

私が岸田理生に出会ったのは、そういうさなかの一九九〇年でした。理生さんは九五年からは岸田理生カンパニーを主宰。

 

HMPから「リオフェス」まで…

ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーと『ハムレットマシーン』に出会って、一体これは何なのだと謎解きを始めたのが一九九〇年開始のHMP(ハムレットマシーン/ハイナー・ミュラー・プロジェクト)。演劇評論家の西堂行人とアメリカ演劇の内野儀とドdokuritusite イツ演劇の谷川道子を核に、演出家鈴木絢士と劇作家の岸田理生が加わり、理生さん宅に定期的に集まっては、皆でああでもない、こうでもある…日本ではまだ殆ど知られていなかったミュラー探索を翻訳・紹介・討議・上演などを並行させながら、日本・世界各地で展開。1995年のミュラーの死をはさんで、二〇〇二年には金沢で「かなざわ国際演劇祭2002」として、さらに二〇〇三年に東京・横浜で韓国や中国からの参加も含めた大がかりな演劇祭「ハイナー・ミュラー・ザ・ワールド」も開催。

そのHMPのメンバーとして演劇現場の実践部隊を引き受け、ミュラーを原作に『メデイアマシーン』の台本作成や『カルテット』の演出などを手掛けてきたのが、岸田理生さんでした。従来の戯曲概念をはるかに超えて上演不可能といわれたミュラー作品の読みや翻訳・上演活動、シンポジウム、観劇ツアー等々にも積極的に参加し、国内に自閉していったかの日本の80年代演劇からの突破口を、自ら探ろうとしていたのではなかったろうか。  

 

シアターの場におけるドラマの位置というものも根底から構造変化してきた現代演劇のパラダイム・チェンジと、真っ向から切り結ぼうとする潔さとともに、視野と問題意識・実践においても、国境を越えようとする岸田の意思も明らかだった。そしてHMPだけでなく、この頃からアジアの演劇人たちとの交流も積極的に行うようになる。1997年には国際交流基金の後援で、シンガポールの演出家オン・ケンセンと組み、シェイクスピアの『リア王』を脱構築。長女が父を殺し、原作にはない母が登場するテクスト『リアLEAR』を提供。舞台では、能、京劇、現代演劇、ダンス等々の多国籍パフォーマーによる多国籍言語が飛び交い、岸田の台本はそれぞれのパフォーマーの言語に翻訳され、能で語られる台詞にまで、日本語の字幕がついた。この舞台は東京から大阪、福岡、香港、パース、ベルリンへと1999年まで巡演。次いで2000年には、やはりオン・ケンセンとの「新しいアジアを探る」共同作業の第2弾として、『オセロ』を「創り手の物語」にさらに変換させた『デスデモーナ』も創られた。

 

没後の「リオフェス」

だが理生さんは二〇〇一年暮れに病に倒れ、〇三年の無念の逝去後に、宗方駿を代表に縁の人たちで「理生さんを偲ぶ会」が結成され、『岸田理生戯曲集』全3巻の刊行(而立書房)と並行して、命日の六月二八日(通称「水妖忌」)をはさんで都内数か所でほぼ一カ月にわたって毎年二〇〇四年から二〇〇八年までは「岸田理生作品連続上演」――一九九〇年以前の岸田理生の舞台を殆ど知らない私には、天井桟敷や哥以劇場時代からの理生さん縁りの演劇人がこういう舞台を創ってきたのかという俯瞰的なレトロスペクテイブの体験もさせてもらったし、それが一段落したかのような二〇〇七年からはもっと自在に岸田理生と向かい合おうという思いから「岸田理生アヴァンギャルド・フェスティバル」(これが通称「リオフェス」)が開催され、二〇一六年で第一〇回を迎えた。

通算一三年、すべての舞台を観られたわけではないが、毎年いくつか気になるものはなるべく観るようにしてきた。たとえば近畿大学学生だった笠井友仁が結成したhmpは大文字のHMPの演劇祭にも参加してきたが、〇七年の第1回リオフェスでは、『糸地獄』をもとにした『Rio』。そして二〇一〇年に岸田理生作『リア』を原作にリオフェス第四回の参加作品として創られたのが不思議な題の『Politics!Politics!Politics and Political Animals!』だった。拙著『演劇の未来形』(東京外語大出版会2014年)でも言及しているので参照されたい。この第4回リオフェスでは、hmpだけでなく、岸田理生の親友でもあった韓国の演出家キム・アラもこの『リア』をとりあげて、大胆に再構成。韓国と日本のスタッフ・キャストの合同により、座・高円寺のロビーから客席までを駆使して、スケールの大きな、まったく新しい『リア』を創り上げてみせた。アジアにおける深層の父権制母権制の対峙と絡み合いへの問題提起が底流にあったと言えるだろう。hmpとは対照的で新旧世代の大小の二つの『リア』の競演もこの演劇祭ならではの醍醐味だった。あるいは二〇一三年の第七回リオフェスでは、ダンサーで振付家の芝崎正道は、岸田理生がHMPでミュラーの『ハムレットマシーン』に触発されて上梓した『メデイアマシーン』をダンスシアター・プロジェクトとして上演、二〇一五年には岸田が演出したラクロの『危険な関係』にもとづくミュラーの男女の二人芝居『カルテット』を、柴崎正道自身の一人芝居としてしゃれたカフェサロン・シアターに仕立てて見せた。こういうのもアリかと感心。まだまだ展開は可能だろう。 

 

第10回リオフェスから三作品

さて、今年二〇一六年の第10回リオフェスからは、あえて一〇周年記念の新挑戦の三作を挙げておきたい。

宗方駿主宰のプロジェクト・ムーの『アンポはつづくよ どこまでも』は、岸田理生が病に倒れる直前に遺した、二〇〇二年に公演予定の岸田理生カンパニー・国境を越える演劇シリーズvol.13『安保・花咲けるオカマたち』という短い企画書をきっかけに創られたという。「旅路の果て」という養老院の特別病棟で、死期の迫った四人のゲイの老人たちが六〇年安保の思い出を介護にやってきたタイ人の美青年に語る物語になるはずだったらしいが、その構想に岸田のさまざまな作品の断片をも織り込みつつ、作家の福田光一が書き大橋宏が演出した岸田理生原案の「幻の新作」。安保法案と改憲の「パンドラの函」問題がもろにリアルになってきている今の状況を、理生さんは予見していたか? たしかに理生さんは政治と男たちを描くときは、喜劇的でかつ容赦なかったが…

次は、岸田理生カンパニーのメンバーを中心に結成されたユニットRによる『眠らない男』。岸田が天井桟敷時代に七六年に単独で書いた処女作『眠る男』に七九年の『凧』をクロスさせて、諏訪部仁のうまい構成・演出でさらにすっきり進化した『眠らない男』として蘇る。今、世界と私は目覚めているのか、眠っているのか? 第一景から、母が少年に「そんなに眠らないと砂男が来るよ」という台詞で、ドイツのロマン派の詩人ホフマンの『砂男』のメルヘン世界に引き込まれる。不眠訓練を操る女帝と医師と愚者の裏世界をもつ二重構造で、意識と無意識の境い目での不眠訓練というブラックメルヘンが、白庄司孝の絶妙なサックスとパーカッションと照明で駒場アゴラ劇場に充満していく。そうか、岸田理生の劇作の原点にはホフマンのメルヘン世界があったかと、何故か嬉しくなった。

最後が、千賀ゆう子の構成・演出・主演による『ラブレター~作品と日記による~』。千賀によると、一昨年に偲ぶ会の宗方駿氏から「リオフェスのために」と渡されたのが一冊のノート、一九九七年十月一四日から二六日までの日記風の手記。これを中心に作品を創るのは荷が勝ちすぎると手元に置いて折に触れて読むうちに、これは個人的なものを超えた〈演劇へのラブレター〉だと思い当たった。『リアLEAR』を演出したオン・ケンセンとの関わりと岸田理生の演劇への関わりが重なって、若い俳優たち三人が紡ぐ『リア』からの断片を横軸に、主軸のケンセンへの語りかけのような旅日記を千賀ゆう子が語っていく。 

 

ことに私の心に突き刺さってきたのが、「Keng Sen…いつか話したことがあったわね。私の旅は一九九〇年にはじまりました。ドイツと韓国、間をおかずに二つの国を旅をし、私はKoreaを選んだ。ふと思いました。あの時,ドイツを、ヨーロッパを選んでいたら、あなたとの出会いはあったのかしら?なかったのかしら? わかりません。唯、わかっているのは、私にとってはKoreaを選んだのは幸福だった。距離の近さではありません。日本にのみ向いていた視野が、外から、そう、アジアから日本を見る視野に移行したことがよかったのだと思います。多分、そう多分、私はKoreaを選んだことによって、あなたと出会うことができたのでしょう、そうして『リア』を共有することができたような気がします」――そう、そういうことだったのだろうなと納得する。岸田理生のテクストの中でミュラー菌は生き続けていたし、シンガポールのケンセンの演出を通してそれが世界へと拓いていった。舞台の合間には、入間川正美のチェロの生演奏が切なく響き渡る。緑と青空の広がる大きなバルコニーを持つ客席二〇ほどの六本木の小さなギャラリーはまさに、岸田理生と千賀ゆう子の演劇的な生命の息吹のためにあるかのよう。リオフェス一〇周年の贅沢ないい締めくくりだっただろう。印象的な舞台でした。

 

「リオフェス」の位相

こういう一人の作家へのトリビュート演劇祭が一〇年余も続くというのは、類例がないのではないでしょうか。HMPもミュラーを核に一〇余年続いたが、前半は探り、後半は国際演劇祭の準備に明け暮れた。私個人はその理念は、「ポストドラマ演劇」や「日本におけるドイツ年」へと、またF/T(フェスティバル・トウキョウ)やKEX(京都エクスペリメント)という実験演劇祭での試みへと拓いていったと思っているが、運動論的な実践としては、「リオフェス」にゆるやかに引き継がれていたのではないか、と。

それを可能にしたのが、何より「戯曲集」という形でテクストが公刊共有されたこと。

そして岸田理生を偲ぶというより、思いを寄せる演劇人がたしかな形で存在していること。

おそらく岸田理生の軌跡が、七〇年代の寺山/天井桟敷/アングラ演劇、秋元松代を先駆としつつ、如月小春、永井愛、一堂令、渡辺えり等々の八〇年代の女性劇作家としての模索と自立、九〇年代からのHMPや韓国・アジアとの国境を越える共同作業と、戦後日本の現代演劇の展開を果敢にわが身に引き受けた演劇人のそれだったからだ。

 

そのいずれかの部分に共振・連動して、それぞれが自分たちのリオ・ワールドを創り上げていく。そうきたかと、こちらは納得したり、怪訝に思ったり…このエッセイのタイトルを、個有性と共有性のポリフォニー空間と題した所以でもある。

岸田理生についての博士論文を大阪大学で岡田蕗子が執筆中だときくし、あるいは『テアトロ』先月の九月号の特集「我が心の友への手紙」で、演劇実験室:紅王国主宰者の野中友博が、最初の連続上演で『火學お七』を演出し(観ました!)、いつか『捨子物語』を上演することを理生さんに約束しているのだ。他のメンバーもそれぞれすでに次回は何をどう取り上げようかと練り探っていることでしょう。「リオフェス」自体はすでに助成金を打ち切られて、皆、自前でやっていると聞きますが、こういう独自性と持続性と発展性のある演劇祭こそ、助成され続けてしかるべきではないでしょうか。この原稿も、それへのエールのつもりなのですが…・。

 

 

追記:岡田蕗子さんがついについ先日、大阪大学で岸田理生についての博士論文を提出されたという嬉しい報告を聞きました。今年の「リオフェス 2017(第11回岸田理生アヴァンギャルドフェステイバル)」も、東京は6月22日から7月9日まで、開催されるという。今年は何と七月末には、「リオフェス IN KYOTO」にまで延長されるとか。ネット検索してください。今年のこの「リオフェス」については、書き手を次世代の岡田蕗子さんにバトンタッチして、「テアトロ」誌に劇評が掲載されるはずです。「持続する志」にエールを!

久しぶりにこのブログを再開します!

 

 久しぶりにこのブログを再開します! 

2016年1月の賀状を最後に中断していましたが、何度か書きかけながら、たとえば去年の「3・11」の日には障碍者劇団「態変」の公演『ルンタ(風の馬)――いい風を吹け』を座・高円寺に観に行って、その感想やらをいろいろに思いめぐらせて書き連ねていたのですが、「7・4」には「七月四日に生まれて」なのでちょうど七〇歳の誕生日、戦後七〇年、戦争を知らない子供たちの第一期生として、戦後憲法第九条のこととか・・・その他、劇評などもろもろ・・・思いが余りすぎると着地しかねて、依頼という義務なしのブログは、ついつい、ま、いいかとなるものですね。いろんな友人や皆さんのブログやフェイスブックを目にするにつけ、そんな機敏さは、もう今の私にはないなあとあきらめていたのですが、せっかく始めたブログ、年に何度かの備忘録か消息通知のつもりでいいので、私なりのペースで、再開させていただこうかと思いなおしました。ブログが更新されないと、また病気かな、もうあの世かしらと問われたりもしましたので・・・ま、生きている証拠に。

 

去年一年のことを、残った記録でまずはざっと辿ります----

まずは去年の夏に書いて、秋の演劇誌「テアトロ」十一月号に掲載された文章を転載させてもらいます。「リオフェスのこと」。

今年の「リオ・フェス」がまたそろそろ始まりますので、そのつなぎの前宣伝にもなります。少し長いですが、あえてこのまま載せさせて貰います。「テアトロ」誌では写真付きで掲載されたのですが、ここではそこまでできないかな・・・? 追記の文章で、今年につなぎます。

 

 

Frohes und Friedliches Neues Jahr 2016 !!!

Frohes und riedliches Neues Jahr 2016 !!!

 

 

本当に、あっという間に1年が過ぎて、2016年を迎えてしまいました。

加齢とともに時の歩みは加速度的に速くなるのでしょう。

それに反比例して対応はゆっくりとなり、特に手術後は賀状を書く集中力も弱まって一斉メールの賀状にしたのですが、年末までにそれもかなわず、1月の間にブログの賀状をというのも間に合わず、せめて立春前にブログでの新年のご挨拶をと!

 

昨年は頼もしい同行者の支えを得て、エイヤっと思い立って、病後初めてで6年ぶりのベルリン演劇旅を敢行。うるわしのドイツの5月。主会場に歩いていけるホテルに泊まりながら、道に迷ったり、疲れたり、ドイツ語が中々聞き取れなかったり・・・心身能力の衰えと闘いつつ、無事に観劇して帰国。

それでもせっかくのベルリン演劇祭。できるだけその全体像が浮かび上がるような、若い世代の頼もしい力を借りてのチーム報告を、と頑張ったのが、昨年暮れにアップした二つのブログでの報告でした。

ベルリン演劇祭は、ベルリンの壁を演劇で乗り越えようと1964年に始まって今年が52回目。毎年ドイツ語圏演劇のベスト10作が選ばれてベルリンで招聘上演される人気の演劇祭。今年も難民問題など、焦眉の社会と演劇の問題が凝縮されて映しだされて迫力十分。 

ドイツ演劇研究者として、AICT賞受賞へのお返しという気持ちでしたし、東京外語大の図書館講演会でもこの報告を交えてお話し、今の時代への私なりの切り込みをお話させていただきました――リタイアから5年目の渾身の中締め?という感じだったでしょうか。感謝です。

 

日本のこともしっかり見ておかなくてはと、実は、ベルリンから帰国後の6月、沖縄戦終結の23日を挟んで沖縄に旅行。沖縄第1中学校校長だった方が生徒たちと戦死された弔いを中心に、静岡沖縄戦遺族会の追悼の旅。もちろん沖縄は初めてではなく、何より2005年秋に日本独文学会秋の研究集会が、アメリカ軍ヘリコプターが墜落した直後の沖縄国際大学で開催され、そのときの学会員は殆どみな、歴戦の地もめぐったことでしょう。

本土で唯一米軍が攻め込んできて決戦の地となり、ヒロシマに匹敵する20万人が犠牲となった。その後も米軍占領下におかれ、1972年の返還後も在日米軍基地の75%がいまなお沖縄にある。日米地位協定にしばられて、米兵に女子学生が強姦殺害されても、大学に米軍機が落ちても、手も足も出せない治外法権。オキナワの怒りが、今回も旅のいたるところで実感されました。バスの運転手さん、ガイドさん、お店の客にエイサーの踊り手、皆さん、しっかりご自分の思いを語られる。最後は皆でのカチャーシー。オキナワは沖縄でありたいのだと。辺野古に続くサンゴ礁の海も美しかった。こんな美しい地球を壊すのかと。

昨年のお正月のメール賀状では、オール沖縄の勝利に社会変化の道筋が見えたような気がしたのですが、今年始めの宜野湾市長選では敗けました。基地がどこであれ普天間からは出て行って欲しいという宜野湾に住む皆さんの切実な思い、そして巨額なお金とディズニ―ランド化への約束。切実な思いが新しく歴史を開こうとする動きに結びつくには、どうすればよいのでしょうか。民主主義とは何なのでしょう。

 

安保法案審議の国会デモにも行きました。8・30の10万人集会はさすがに狛江9条の会で参加、後はひとりで時間の空いた時に、国会議事堂前で降りてお巡りさんに若い人たちSealds の集会場所を聞いて、若い衆のヒップホップやラップ調の乗りに加わってコールしたり・・・・座視してはいけないだろうと出かけて、自分たちの思いと言葉を自由に表現する若い力のエネルギーと可能性に励まされました。

 

今年のドイツ語の冒頭挨拶には、新しい年が楽しく平和でありますようにという思いを込めました。皆さまのご健康とお幸せを祈りあげます。

 

外語大図書館講演会「演劇という文化」

去る12月2日に、外語大図書館講演会として、私の講演「演劇という文化」が開催されました。前コラムのベルリン演劇祭のTT2015報告にも触れつつ、ドイツ演劇とその現在形が見えるような形でお話しましたので御笑覧いただきたく、講演原稿をアップさせていただきます。

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2015年度 東京外語大図書館講演会  

2015122 16;3018;00    

@東京外語大プロメテウスホール

谷川道子: 「演劇という文化」

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「ベルリン演劇祭 =Theatertreffen2015報告」のこと

久し振りのブログです。この間、見知らぬ方から、このブログのファンだったのに、ずっと途切れたままなのでどうしたのかというあり難い問い合わせを頂きました。再開致します。ご覧いただければ幸せです。

 

  実はこの間、まずは、5月1-18日開催の“Theatertreffen 2015”=通称ベルリン演劇祭(=TT2015)に、出かけてきました。思えば大病後、もうドイツ観劇旅行は無理かと思っていましたが、何とか立ち直り、若い人にベルリンまで同行して頂けることになり、ちょうどその頃、同じ関心をもつ皆さんがべルリンに集結しサポートして貰えそうなので、最後のチャンスかもしれないと、重い足腰をあげました。そして3週間ほどベルリン滞在して、皆に支えられながら全10作を観てきました。

  ドイツにはさまざまな演劇祭がありますが、中でも「ベルリン演劇祭」は、前年度のドイツ語圏の劇場のベスト10の舞台が審査委員により選ばれて、5月にベルリンに招聘されて上演される、映画でいうとオスカー賞のような演劇祭。いわば各年度のドイツ演劇のエッセンスがまとめて観られるのですから、毎年でも行きたいところ。しかし年度初めの時期では難しく、リタイアしたらと思っていたのですが・・・。  

 

6年ぶりのベルリン演劇祭TT2015ー、それならAICT機関誌『シアターアーツ』WEB版に報告を載せて欲しいという依頼を受けて、せっかくなら、ベルリンに集結する若い世代とチーム報告の形で、ドイツ演劇の現在の全体像が浮かび上がるといいなと構想・夢想。

誰が何をどう書いてもらえるのかも手繰りの中で、何とか、アラサーの孫世代とでもいうべき若い6名の皆さんに書いてもらえることになり、鋭意、原稿執筆に専念。8月には原稿を完成させて、編集委員会のチェックを受けて、訂正段階に入り、途中で編集委員会のプロバイダーの故障も入って、結局、アップまで半年余もかかりましたが、皆さんの頑張りと熱意と、そして何より、「シアターアーツ」誌の編集委員会の坂口勝彦氏と関智子さんのご尽力のおかげで、ドイツ演劇の現在形が浮かび上がるようなチーム報告ができたのではないかと、嬉しく思います。

 

サイトは、http://theatrearts.aict-iatc.jp/ こちらがトップページです。見ていただくと、すぐにどれかわかると思いますので、それをクリックして本文を見てください。

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