谷川道子ブログ

東大大学院修了(ドイツ演劇)。東京外国語大学教授。現在、東京外国語大学名誉教授。

TMPに連動するやなぎみわの半端ない『神話機械』

前書き:TMPをどう始動しようかと思案しているさなかに、やなぎみわさんから、ハイナー・ミュラーのテクストを使ったライブパフォーマンスを挟んだ『神話機械』というプロジェクトをやりたいというオファーが届いて、背中を押された。これが実質的にTMPのスタートとなった。その経緯と内容を、まずは紹介させていただく。


 「やなぎみわ」に出会ったのは、彼女が2011~12年の美術家から演劇に「転身」した最初のプロジェクト『1924』三部作。関東大震災で東京の文化が壊滅したという報をベルリン留学中に聞いた土方与志が帰国して建てた新劇最初の有形劇場で、日本新劇のメッカとされる築地小劇場をめぐる三部作だという。1920年代の演劇革命のベルリン時代のブレヒトで卒論を書いた身としては、「え?」という感じだった。同時期に村山も土方も千田もベルリンに居た。東北大震災の直後だし、限定の切符をネット予約してでも観に行かなくては、と思い立った。

プロジェクト『1924』三部作

 しかも第1部の『Tokyo-Berlin』は、初演は京都国立博物館での「モホイ=ナジ」展の中に埋め込まれた、ナジからの(架空の)手紙と電話を巡っての村山知義土方与志、そして岸田劉生との協働と確執。それをやなぎみわ特有のモダンな案内嬢たちが観客を展覧会から演劇空間にイヤホンガイドで案内して回るという設定。第2部はそれより4か月前の「血沸き肉躍る築地小劇場の旗揚げ公演」、村山の魂が「デングリ帰った」、ドイツ表現主義の作家ゲーリング作で土方演出の『海戦』の舞台。これはKAAT神奈川劇場の大スタジオ。今回も案内嬢によって、観客はまずは舞台上を案内され、築地小劇場旗揚げ公演の演出家土方と小山内薫による役者たちの稽古・準備風景と、1924年当時の築地小劇場と、現在の公演地KAATの最新設備が渾然一体で説明される。そして上演される『海戦』は稽古なのか本番なのか、楽屋落ちなのか。境い目も定かでない感じで展開し、案内嬢の「仕舞口上」の解説のエピローグで終わる。

 第3部の『人間機械』は、私が観たのは世田谷美術館で、葉山の神奈川県立近代美術館でも関連企画「新・劇場の三科 1925→2012」として、1920年代のベルリンー東京で前衛的な芸術の探求を美術、建築、演劇、ダンス、デザインにと、八面六臂の活躍で「日本のダ・ヴィビンチ」と言われた村山知義の多面的な展覧会『すべての僕が沸騰する-村山知義の宇宙-』の会期中に、そのなかに設定された劇場空間で演じられた。『人間機械』は村山の著書のタイトルだが、村山は傷痍軍人を指して用いている。前二作と同様に、観客は案内嬢たちに案内・同伴され、最後には搬入用エレベーターに誘導され、バックヤードの搬入口に辿り着くのだが、その時には生きた村山自身が二人に分裂し、一人が収蔵庫に収められ、もう一人は反戦プロレタリア演劇人として街宣車で演説しながら去っていく。沸騰した村山の「僕」の痕跡だけが展覧会に遺されて歴史化・無害化されるという、村山知義自身と美術館のパラドックスの「見える化」でもあろうか。

 後の2作の脚本は若手劇作家で演出家のあごうさとしだったが、歴史上の実名の人物像がいわゆる近代歴史劇に収まらず、その後の歴史展開を知り尽くした視点で、現在から過去への語りかけのような架空の対話・自問・問いかけが成立してくる。「築地の1924年」にモダニズムと演劇史の問題の要点が凝縮していたことに気付かされる―あのモダニズムはどこに消えたのか…2年足らずの間でのこの半端でない凝縮した「三部作」――やなぎの言葉を借りれば、「ホワイトキューブの美術館の中に劇場というブラックボックス」を入れ込み、異種間交流の醍醐味を探る。そう、こんなものを観たかったのだと心騒いだ。

 そのときに思ったのは「やなぎみわ」とは何者で何をしようとしているのかという謎と、いつかこの女性はきっとハイナー・ミュラーとクロスするだろうなという直感だった。


 直感が当たったのはほぼ10年後の2018年――『神話機械』というプロジェクトにハイナー・ミュラーのテクスト『ハムレットマシーンHM』と『メデイアマテリアルMM』を使わせてほしいのだけどと突然にメールと電話を頂いた…。ちょうど、TMPのプロジェクトをさてどうしようかと考え始めていた頃だったので、連携してくれるかなと持ち掛けたら、喜んでと…。はて、どう来るのかと聞いたら、やはりこれも半端なかった。機械も1年かけて各地の大学や高専の研究者や学生に共同制作してもらって、ライブパフォーマンスを挟みこんだ展覧会として、高松美術館、アーツ前橋、福島県立美術館神奈川県民ホールギャラリー、静岡県立美術館を、1年かけて巡回するのだという。そう来るのか、それならそれを大枠に、演劇表象とは何かという問いかけを、日本中の点と線でつなぐようなプロジェクトにTMPがなれるかもしれないなと、徒手空拳でありながら夢見た。せっかくなら先の読めない冒険の方が面白いかなと。やなぎみわのエネルギーとヴァイタリティに煽られたか。

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写真家から演劇人へ~やなぎみわの仕事

 今年2月からの最初の高松市美術館には行けなかったが、代わりにTMP相棒の小松原由理さんに行ってもらい(TMPのHP参照)、2か所目のアーツ前橋でのライブパフォーマンス目当てに足を運んだ。これは『やなぎみわ 神話機械』展でありつつ、美術と舞台を往還するやなぎみわの10年ぶりの大規模個展でもあった。「やなぎみわ」とは何者かとそれなりに探ってきたものが、回顧展のように示される。5美術館による公式図録もそれに合わせて充実している。なるほどと、とても参考になった。

 いまや世界的な写真家やなぎみわの仕事――消費社会の象徴のような規格化された『エレベーター・ガール』シリーズは、CGを使って実際のモデルが増殖・加工され、ある種のディストピア的な未来社会像を思わせる。『1924年三部作』の案内嬢もその延長線上にあるのだろう。『マイ・グランドマザーズ』(2000~2009)は、公募したモデルが「50年後に理想の自分」をイメージしてやなぎとの対話から浮かび上がった老女像を特殊メイクやCGを組み合わせてビジュアル化する26点のレポート。大きな美術館に並ぶと現実と想像の交差の不思議な時空の広がり方の迫力だ。さらに世界で語り継がれてきた老女と少女の寓話や物語を少女が細工を凝らしてイメージ化した『Fairy Tales-老少女奇譚』。そしてさまざまな『ビデオ・インスタレーション』…その先に『1924年三部作』が来て、その後に、台湾で出会い製造輸入に到ったという移動舞台車=ステージトレーラーによる、中上健次の原作小説を山崎なしが脚本化して日本各地で巡回公演した『日輪の翼』―これは2016年より中上健次の故郷の熊野をはじめ全国5か所を旅公演。今年は10月初めに神戸の水産卸売市場内の波止場と海上を使って上演される予定だ。あえて総覧したのは、それぞれが複眼的批判的思考と直感の「やなぎみわワールド」として、それなりにつながってイメージとモチーフが展開しているように思えるからだ。

『神話機械』=MM=Myth Machines

 そして今回の『神話機械』―美術館会場に入ってまず圧倒されるのが、巨大でたくさんの桃の木の写真シリーズだ。福島市内の果樹園で撮影されたという。しかも『女神と男神が桃の木の下で別れる』と題されている。『古事記』の神話が背景にあることを示すタイトル。男神イザナギがあの世とこの世の境、黄泉平坂に辿り着いて、そこに生えていた桃の実をとっては投げ、ようやく女神イザナミを死の国に追い払ったという、ギリシアオルフェウス神話をも思わせる物語。そういえば多和田葉子に『オルフェウス、あるいはイザナギ』という戯曲があって、今回のTMPの枠内で本邦初訳初演されることになっている。思えば東西の神話は意外なほど似ているが、どこでどう、絡むのだろうか? 

 ちなみにやなぎみわワールドにおいては、中上健次ワールドから戻っての新たな神話世界への入り口なのだろう。ご丁寧にもその『神話機械』の入り口の一角には白い部屋があって、そこでは裸の男が『桃を投げる』場面の上からのビデオ・インスタレーションが映されるのだ。やなぎみわ異聞による『火と桃投げと別離の神話』と題する文がつけられている。

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「火の神を産んだときに火傷を負い、妻の女神は死の国へ赴く。
 美しい女神を慕う夫の男神は、死の国まで追っていき、

 禁断の部屋を覗き、女神の本来の姿を目撃する。
 それは地球の原初の生物の姿であり、光合成を行い鉄分を生み出す 
 泥のようなバクテリアの集積であった。
 その姿を見て驚いた男神は逃げ出す。「…中略」
 女神は、一心不乱に桃を投げつけてくる夫の姿を見ながら、
 夫の言うとおり火や鉄を産んだことを後悔する。
 女神は「一日千人の人間を殺す」と言い、
 男神は「ならば一日千五百人を産む」と答える。 

 男神と女神は決別し、女神は死の国の大神となり、
 男神は火や鉄とともに生の国に戻った。
 一つの世界が二つに分かれたれ、さらに
 果てしなく分裂していく悲劇が始まる。」

 HMやMMも想起させるが、これが東西の「神話機械」=MM=Myth Machinesへの導入なのだろうが、さて…まずは機械だ。「モバイル・シアター・プロジェクト」と名付けられたこれも半端ではない。ギリシア神話の文芸を司る女神たちの名前を与えられた4台のマシンが、やなぎみわと大学、高専、高校、および開催館が協働して制作された。

 メインマシンはタレイア、ギリシア演劇の、とくに喜劇の女神で、ハンブルグ市にはタリア劇場というのもある。メインになって、対象物に照明、音楽、台詞を与えながら走行する、いわば演出家。桃の花の花芯か女性器のようにきらめき開いたり蕾んだりする。ムネーメーは投擲マシンで、ピッチングマシンのように、しかし髑髏を定期的に投げては打ち壊す。テレプシコラーは振動マシンで、ガラス瓶に巻きコインが雄蕊のようにはいった枝葉が震えか響きで拍手喝采する大きなツリーのようだ。メルポメネーはのたうちマシンと呼ばれ、透明な胴体についた奇妙な手足で、床をのたうち回る。マシンは意外とアナログで手作り感にあふれている。そう、各地のそれぞれに「NHKロボコン」などで評価を得た研究室の先生と学生たちによる共同作業の成果の自信作とか。背後にイアソン率いる「アルゴー船の船首像」の大きな写真が逆さ吊りされている。それらが美術展示品のように置いてある大きな空間は、一見するとまずは戦場か墓場、都会か港の廃墟のようだ。それが「無人公演」と銘打ってスイッチが入って自動で動き出すと、夜の都会のショールームのように、さまざまな動きとカラフルな照明と弔い鐘か称賛鈴のような響きとで、何がどうなっているのかとさまざまな連想で興味深く見飽きない。ハイナー・ミュラーのテクスト風景を思わせる。

 展覧会期中に数ステージある「有人公演」、『MM=Myth Machines=神話機械』では、演者と奏者がそこに一人ずつ登場して、ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』と『メデイアマテリアル』のテクスト世界が始まるわけだ。とは言っても、最初はどこからか聞こえてくる「墓堀人夫たち」の声の中で、奏者内橋和久は一画でギターと手作り弦楽器で作曲と即興による演奏を続け、トランスジェンダーという演者高山のえみは、ときにハムレット、ときにオフィーリア、あるいはときにメデイア、ときにイアソンとなって、シェイクスピアギリシア神話に基づくミュラーの謎のようなテクストを問いかける、という構図だ。最後はアルゴー船隊員の痕跡が難民船のイメージとも重なって、ともに生と死の混沌とした荒廃の風景だけが残る。やなぎは異聞化でなお闘う:「大地を掘りつつ、歌い、語れば、人は真実を思い出す。〈あとは沈黙〉?  馬鹿な。決して沈黙してはなりません」…なるほど、演者は語り部だ。直感は10年後に、こう当たって、こう実ったのだ、と。

 たしかに、これもやなぎ+ミュラー・ワールドのひとつの集大成だ。しかし、神話から現代の落魄の岸辺までを流離うこのマシンは、おそらく今後も動き続いていくのだろう…。

 

付記;神奈川県民ホールでの「やなぎみわ 神話機械」展に際して、二人で対談トークしようかと企画中。