谷川道子ブログ

東大大学院修了(ドイツ演劇)。東京外国語大学教授。現在、東京外国語大学名誉教授。

秋深し、演劇の秋、いざ生きめやも

 

芸術と演劇の秋…新国立劇場の『三文オペラ』も無事に千秋楽を迎えたので、頑張って、10月4-5日に秋の京都へ旅をした。といっても、京都エクスペリメント(KEX)と、その時だけの日本上演という She,She,Popの『春の祭典』を観るためだ。とても一人では無理なので、すべてにおいて頼りになる谷川塾の仲間/友人の柴田隆子さんに宿も切符も手配してもらって同伴させてもらうという、おんぶに抱っこの大名/お姫様旅だ。超幸運にもこの週末は二つの台風の合間をくぐってのいいお天気で、よろずにラッキー! 感謝!

 

京都エクスペリメント(KEX)と京都芸術センター

2010年に始まって今年で5回目という京都国際舞台芸術祭、通称キョート・エクスペリメント(KEX)――もちろん日本でも、82年からの利賀フェスティバルのような国際舞台芸術祭はあったものの、2008年に始まった東のF/ T(フェスティバル/トーキョー)に関しては近著の『演劇の未来形』でもいろいろ紹介しているが、西のKEXの方は私の入院騒ぎもあって訪問さえできずに、我が教え子の川崎陽子さんも頑張っていながらと、ずっと気になっていた。やっと柴田さんの杖を得て2日間だけ念願を果たせたのだが、後発の利点をいかして、コンセプトと組織つくりにいろいろな探りや工夫があって、なるほどと納得・感心させられた。

ただ、その中心母体ともいうべき、廃校となった明倫小学校の跡地と校舎を利用して作られた京都芸術センターは、開館した2000年に、東大の内野儀さんやセゾン文化財団の久野敦子さんらと訪ねていた。どことなく懐かしく、居心地のいい空間で、いろんな透き間と拡がりがあって、自由自在で、アートと風景と、現在と歴史とパフォーマンスが共存できる、子供に帰れるような、大人としても立てるような・・・そ、ベルリンの随所にあるような、ホールやギャラリー、カフェなどを備えたアートスペースとしてのその後の可能性に思いをはせたものだ。それまでのもろもろの前史や太田省吾さん、遠藤寿美子さんら先人たちの努力を踏まえて、いまや京都の芸術振興の拠点施設になっている。KEXは、そこと京都市京都造形芸術大学NPO京都市芸術文化協会、京都府民ホールアルティなどの主催・共催で、メセナ文化庁の助成も受けた合同のKEX実行委員会体制だ。明倫小学校が京都の町衆たちの力でできたことや、ドイツは自由都市ハンブルクに市民たちによる最初の国民劇場が造られたことなどをも想起させる。ベルリンの芸術家会館ベターニアンや、複合芸術施設拠点HAUも先例・範例――官でもなく民でもない公の舞台芸術文化がここなら育つか? あれから10余年…KEXがついに5年目だ。

今年のKEXは、9・27から10・19までの3週間に11の公式プログラム+フリンジ企画で開催。私たちが観たのは、京都芸術センター講堂での村川卓也による、当日何が起こるかわからないというコンセプト的でハプニング的な不思議な舞台『エヴェレットゴーストラインズ』と、コロンビア人の振付家ルイス・ガレーによる、肉体と思考がせめぎあう、濃密なるソロダンスの舞台『マネリエス』(アガンベンの『到来する共同体』の一節からとられた言葉だというが、意味の詳細は不明)。そして、大きな府民ホール「アルティ」での、京都とベルリンの共同制作の新作だという『春の祭典―She,She,Popとその母親たちによる』は、面白いアフタートークの途中までで、あわててタクシーで新幹線へ。

 

春の祭典―She,She,Popとその母親たちによる』

1990年にギーセン大学卒業生(つまりレーマンの教え子)の女性8人で結成されたDamenkollektiv、すべてを集団討議と作業で作り続けているShe,She,Pop。名前は聞いていたが、初めて舞台(?)を観たのは、2011年の神奈川芸術劇場KAATの開幕シリーズのプロジェクト「世界の小劇場ドイツ編」での客演で、シェイクスピアの『リア王』を下敷きにした『TESTAMENT(遺言/誓約)』(以下『リア』と略記)。これについては入稿に間に合ったので、『演劇の未来形』で触れさせて貰った。

リア王』を遺産相続や老親介護、世代間ギャップと読んで、自分たちの実の父まで舞台に上げて『リア王』の場面を演技し、討議し、喧嘩し、父子の事実に基づいたリアルな問題と重ねていく。そこまでやるかいと、あのときも度胆を抜かれた。

それを受けて2013年のKEXに、『シュプラーデン(引き出し)』で招聘された。統一前の東西ドイツで育った6人の女性が引き出しからそれぞれ自分の記録/記憶を引き出しつつ語って、対話しようとする…この公演は残念ながら観られなかった。

 

そのときに今回の共同製作の話がもちあがったという。しかも今度は、ストラヴインスキイの『春の祭典』で、母親をテーマに創ろうという。これは、這ってでも行かざなるまいだ。せっかくいったのだからと、だから2回も同じ公演を観て、アフタートークまでつきあった。2回目は疲れた身が大きな母親の映像の顔に圧倒されて根負け、ちょっと眠ってしまったけれど…。

『リア』は王/父性?/エデイプス的父権が核にあるから、テクストをめぐって討議できるが、母子関係はどう扱うのだろう、という興味もあった。そもそも下敷きにされたのが、あの傑作バレエ音楽、2013年がニジンスキイ振付でバレエ・リュスによる初演から100周年という話題作の『春の祭典』。古代ロシアの異教の人々が春を迎える祭礼に処女を生贄に捧げる儀式がテーマだ。私などはすぐに、あのピナ・バウシュ舞踊団の『春の祭典』(1975)が思い出される。両性の闘いのような男女の群舞が圧倒的だったが、それが母子関係のテーマに、どう変換されるのか。言葉より身体や感情による表現か。

『リア』では実際の父子が来日して俳優として同時に舞台に乗って、文字通りのバトル。

それが、『春の祭典』では、実の母親たちは映像による参加となっていた。4枚の大きなカーテンのような映写幕の中に、それぞれの母親が映り、語り、踊る。その幕の前後や間で子供たちが語りかけたり、反論したり、討論したり… なるほどそうきたかと。大きな布をコートや身を隠すマント、古代ローマのトーガの役職の象徴のように巻いたり、被ったり、本人と役割と立場の使い分けでもあるだろうか。それにしても実際の舞台と音楽と映像処理の扱い方が実にうまい。母親の圧倒的な夜叉のような顔がワーッと迫ってくると、論理を超えた迫力がある。前述したが、これが母の迫力か、かなわんなあと、私は圧倒されてか逃げからか、眠ってしまったが。疲れです…映像ながら、不在の在の圧倒的な存在感だった。蛇足ながら、父が結核で不在の母子家庭の私は母とは大の仲良しだったが…

ただ、母親とは家族や社会や共同体における女性の存在や位置、立場を浮かび上がらせる。女でなくなる母は犠牲者なのか、愛は奉仕なのか、犠牲なのか。ギブアンドテイクではないのか、家庭は社会ではないのか。そういうことが直接に語られたわけではない、私の中での谺がいろいろにエコーしただけだが、個人的な問題と社会的、普遍的な問題のクロスは、父親とよりもっと深刻かもしれない。母の立場で観るか、娘/子の立場で観るかは、合わせ鏡だろうか。私には子供がいないのだが、一緒に見た柴田さんは、両方から見られ、責められているようでと…非言語的表現言語のもつ力ということも、ピナ・バウシュとは違った意味での、言語と身体と感情の関係を考えさせられた。

 

アフタートークでは、昨年、京都に滞在した際に、日本の神話や家族社会学における女性の自己犠牲について取材したり、京都やさまざまな儀式に参加して、日本の母親たちにインタビューしたり対話したという。それで、それぞれの子供が母を語るだけではなく、特定されない普遍的な母親たちの姿や、共同体を成立させる要素としての母を浮かび上がらせたい、母同士の会話や、神秘的な儀式と現在をもクロスさせたい、と考えたと…。

ともあれ、一作ごとに手法もテーマも、舞台創造方法も違う。きわめて知的なグループで、ちょっとしばらくは目が離せない。初日乾杯のときに、次作についてこっそり尋ねたら、「公立劇場」の問題をとりあげようかと考えていると…・それが本当なら、ますます興味がわく。いま自分たちが抱えている問題を演劇化していきたいのだ、とか。このグループはいつまでどこまで続くのか…ホント、目が離せない、できるだけ応援しよう。

この共同制作のプロジェクトを担当したのが、我が教え子の川崎陽子さん。頑張ったご褒美に、この秋から1年間のHAUでのベルリン留学が決まったという。何重も嬉しい!

 

秋の京都?

それ以外は、京都芸術センターでやっていたいくつかの展覧会や映像、インスタレーションを見たり…。東京から多くの知人・友人も来ていて、久野さんやオン・ケンセン、内野さん、等々、プレゼンターらしい外国人もたくさんいて、ここが国際的な舞台芸術のネットワークのハブになりつつあるのかなと嬉しく。京都に根差した実験的な創造と交流。

せっかく秋の京都に来たのだから、何も見ずに帰るのも恥ずかしいかと、…泊まったホテルの真ん前が二条城。ここだけは一応、城内と庭をちょっと散策、京都御所の前も何度も素通り…・でも、心も頭も満たされての2日間、柴田さん、ありがとう。

でも高齢者はさすがに疲れた2日間、台風にあわずに帰京・帰宅して、しばらくダウン。もう一度行きたかったが無理。このブログも、遅ればせながらやっと書き上げてアップ。