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谷川道子ブログ

東大大学院修了(ドイツ演劇)。東京外国語大学教授。現在、東京外国語大学名誉教授。

「上質な知性がなくては、あんな民衆劇の喜劇は創れない!?」 

  

『喜劇だらけ~ネストロイの世界』

あの国技館のある両国の反対側のシアターXで、うずめ劇場第27回公演という『喜劇だらけ~オーストリア・コメディ、ネストロイの世界~』を観た。いろんなことを考えさせられたので、その関連でちょっとだけ。

 ヨーハン・ネポームク・ネストロイ(1801-62)をご存じだろうか。日本では「ウイーン民衆劇の作家」というくらいは知られているかもしれないが、日本での上演は、1968年にブルク(宮廷)劇場が『楽しきかな、憂さ晴らし』をもって東京や大阪で客演した以外は、1977年に東京と札幌で『お守り(上演題名は「赤毛もの」)』が岩淵達治と津川良太共訳でそれぞれによって演出・上演されただけだった。いずれも私は未見だが、今回のうずめ劇場はそれ以来、というわけだ。

 だが、オーストリア、ウイーンでは大人気の作家で、本来は場末の民衆劇場のスターだったが、いまや宮廷付属劇場でも人気演目。私もウイーンに住んでいたころに、ブルク劇場に何度か観に行った。人気ネストロイ役者の出るときは切符がとれないほど…観客は舞台と一体になって笑い転げる…でも情けないことに一緒に笑えないどころか、何を言ってるかも殆どわからないのだ。たしかにウイーン方言はただでさえ、電車やバスの中の案内もメロディだけで言葉はわからない、東京人にとっての京都弁? しかもネストロイ語はそれに地口、隠語、冗語、同音意義語、等々の言葉遊びが多重に加わって、身体言語としてすごいスピードで襲いかかってくる。加えて観客が乗りに乗ってくるのだから、外国人観客がついていくのは大変。2001年には生誕二百年が多様に賑々しく祝われたらしい。

 

うずめ劇場とウイーン民衆劇研究会のジョイント

 それが今回のうずめ劇場のネストロイはしごくわかりやすくて、楽しくあっけらかんと(?)笑える。演目はネストロイ最晩年(1862年)の一幕物二作品、『昔の関係 あるいは知られたくない過去』+『酋長“夜風” あるいは世にもおぞましき宴 インディアン風仮装コメディー』。初演は、皇帝フランツ・ヨーゼフの天覧公演であったとか。

分かりやすさの要因のひとつは、まずは1978年の創設以来ずっと月1回で続けているというウイーン民衆劇研究会の存在。40年近い積み重ねと力量と成果は、すでに『ネストロイ喜劇集』や『オペラ・パロデイの世界』などで刊行されているが、今度の『酋長“夜風”(アーベントヴィント)』はこの公演のために新たに訳され、しかも舞台化にあたっては、台本の潤色と脚色を劇団うずめ劇場の手にゆだね、翻訳台本の全文は上演パンフ冊子に治められて観客に無料配布された。舞台での台本は、固有名詞をはじめ、掛詞、歌や掛け合い、駄洒落、リズム、秘密保護法や原発などの時事ネタに絡ませたり、劇団の地元の博多弁が入ったり…俳優たちが稽古の中で言葉を自分たちのものにしていったのだろうと思わせる、そこまでやるかいといった思い切りのいいものにしあがっていて、上演パンフに、〈劇場・編集より〉として自由にゆだねて貰えたことへの謝辞があった。「翻訳劇を扱う劇団にとって、これほど嬉しく、心強いことはない」と。なるほどという見事なジョイント振りだ。

そのうずめ劇場とは、東西ドイツが再統一して東ドイツから自由に出られるようになったペーター・ゲスナーが、1993年に北九州にやってきて旗揚げした劇団。ギリシア演劇の女神タリアの日本版「雨のうずめの命」にちなんだ命名とか。現在は拠点を東京に移しているが、三島由紀夫に始まってベケット、安倍公房、ビューヒナー、ホフマン、岸田国士、クライストにタボリ、ギリシア悲劇と、演目も、海外を含めた上演の場所や形態も、自在にトランスボーダーだ。軽々ととはいかない壁もたくさんあったろうが、もうすぐ20周年の頑張りは称賛もの。その中で培った「翻訳劇」の壁の越え方の知恵だろうか。

 

本歌取り『酋長“夜風”(アーベントヴィント)』の位相

さらに面白いのがこの作品そのものの位相である。

 ネストロイは、ウイーン大学法学部に席を置きながら、音楽や芝居への情熱おさえがたく、22歳でオペラ歌手としてモーツアルトの『魔笛』のザラストロ役でデビュー。その後、俳優から演出家、劇作家を兼ねる演劇人となり、劇作は83作を数え、クプレと呼ばれる時事小唄入りの民衆劇が本領。そして多くの場合、先行作品がある。当時流行っていたものを換骨奪胎し、そのパロディ化が当たって原作の評判にもなるという…いわゆる「本歌取り」だが、それは著作権のなかった当時は普通に行われていたことらしく、ウイーン民衆劇研究会の成果のひとつである『オペラ・パロデイの世界』は、図書新聞で書評させて貰って、そういった事情をなるほどとたっぷり教えられて、じっくり堪能した名著だ。

 この『酋長“夜風”』もそう。そもそもの種本は1857年にパリで初演されたオッフェンバックの『夕風』。周知のようにオペラならぬ軽妙な風刺劇オペレッタの創始者で、次作『地獄のオルフェ(天国と地獄)』で一躍有名になったが、ウイーンでの各上演初日にはオッフェンバック自身が指揮台に立って、大喝采。ネストロイも原作を改訂し出演したようだ。『夕風』は、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』を基に、ときおり食人種がやってくる無人島に漂着した船乗りの現地人女性との恋物語――当時の植民地主義的な冒険と恋のロマン主義の風潮へのからかいか。ネストロイの『アーベントヴィント(夜風)』は、これをもっと過激に全篇改訂し、音楽はオッフェンバックの楽譜を使っている。

 もっと過激に、とは、オーストラリアの辺境の「未開の」島に漂着した「文明人」をめぐって二つの族長の確執と抗争、供宴に食べるものがなくなって果たして食べたのは……ルソーのいう「高貴な未開人」の理念を微妙にねじりつつ、ネストロイは当時のクリミヤ戦争前の列強同士の首脳会談の外交にあてこすって、ウイーン方言と皮肉を駆使したご当地劇に作り替えた。検閲ぎりぎりの数々の工夫があるようだが、その風刺は当時の観客には不評だったようだ。今では「文明と未開」をめぐる風刺の茶番劇、という風情か。

 さらに、ノーベル賞作家イエリネクというもう一つの位相が、その上に乗っかる。1987年の『大統領アーベントヴィント』だ。自らを「ネストロイの遺産相続人」と称する彼女の風刺も過激だ。酋長アーベントヴィント(夜風)は、1981年まで国連事務総長を務めて1986年にオーストリア大統領に選出されたクルト・ヴァルトハイムに、暗示的/明示的に変換されているのだ。ヴァルトハイムがナチス国防軍の将校だった事実が選挙期間中にも暴露・喧伝されたのに、大統領に選出されてしまった。そのような大統領をいただくことは、ユダヤ人ひいては国民を犠牲とする食人主義(カニヴァリズム)というわけか。

 

上演パンフ冊子などのサービス精神

 オッフェンバックにネストロイにイエリネクの三階建て……そういったあれやこれやの薀蓄は、私の素養の範囲などはるかに超える。実は、この作品の翻訳台本が掲載された上演パンフ冊子には、ウイーン民衆劇研究会の会員諸氏による詳しく達者な論考もさまざまに併載されていて、わが薀蓄はほとんどこれに依るという次第。観劇後に、いったいこれはどういう芝居だったのかとこの冊子を繙くと、そんなこんなの世界も開けてくる、という仕掛けだ。ほとんど一冊の本のごとき内容が詰まって、観客に無料のおまけで供される。この本公演前には劇場で、研究会メンバーによるレクチャーやトーク、勉強会も波状的に開催されたと聞く。老若男女の満員の観客も、なんだか上質の感じのいい雰囲気だった。

 

 サービス精神はそれにとどまらない。二組のカップルが過去を知られまいとするたわいない笑劇『昔の関係』の後の休憩時には、ウイーン由来のワインやおつまみ、ホーメイ(トゥバ族の倍音による音楽)の実演まで供されて、続く『酋長“夜風”』の舞台にはたくさんの島民があふれて、唄い踊る。大盤振る舞いだ…。

 

下町の民衆文化の精神

帰路にちゃんこ鍋屋さんに寄って、そう、ここは下町、相撲も歌舞伎も民衆の娯楽だったのだと思い、ウイーン民衆劇場のある下町界隈の雰囲気を思いだしたものだ。シアターXも、そういう民衆劇場であろうと、貧しい日本の文化行政の中で頑張っている…。

ちゃんこ鍋をつつきながら、上質の知性と意地と思いやりがあって、こういう民衆劇の喜劇が創れるのかなと、連れの仲間と話したものだった。