谷川道子ブログ

東大大学院修了(ドイツ演劇)。東京外国語大学教授。現在、東京外国語大学名誉教授。

『三文オペラ』という作品について

三文オペラ』とは、豊饒と猥雑さのエネルギーの塊  

    

まずは『三文オペラ』とはどういう作品か、光文社文庫の解説から少し借用!

 

おいしいやっつけ仕事『三文オペラ

 ドイツ文学史で「レジェンド」というなら『ファウスト』、「ミラクル」といえば『三文オペラ』だろうか。偶然が必然とひっくり返って、時代精神にピッタリはまった。

ブレヒト(1898-1956)といえばまずは『三文オペラ』。その『三文オペラ』というと、黄金の一九二〇年代――狂乱のベルリン――マルチメディアのメガヒット、そんな連想ゲームがすっと成立する。第一次世界大戦の敗戦とヒトラーの政権獲得にはさまれたドイツ初めての共和国――なかば郷愁をこめて回顧されるその「黄金の二十年代」の蕾の象徴が無声映画カリガリ博士』(1919)なら、『三文オペラ』はさながら、ヴァイマル共和国時代の最後に見事に咲いた、狂い咲きというより、時代精神に触れて咲くべくして咲いた大輪のあだ花のようでもある。

 

 一九二八年八月三一日の初日は、ヴァイマル共和国の演劇にとって伝説的な日付となった。たちまちの『三文オペラ』フィーバー、絶賛の記事とソングのメロディーはラジオやレコードで巷にあふれ、一年余のロング・ラン。失業者の増大やナチスの台頭といった政治的な緊張の高まりのなか、『三文オペラ』にこめられた辛辣な反逆精神と魅力的で反抗的なエンターテインメントは観客を魅了し、一九三〇年までにドイツ中の百二十を越す劇場で四千回以上の上演数を記録。さらにはモスクワ、パリ、東京、ニューヨーク等と上演され、レコード化と一九三一年のパープスト監督による映画化でさらに拍車がかり、一躍ベルトルト・ブレヒトの名前は世界にとどろくこととなったのだった。

 

 そもそもの発端は、材木商売で一山あてた野心家のプロデューサーのヨーゼフ・アウフリヒトがシフバウアーダム劇場(現在のベルリーナー・アンサンブル)を引き受けて改装し、その柿落し公演で一旗あげようと画策して演目を探していたこと。当時の人気劇作家で大御所のゲオルク・.カイザーの作品に決まりかけていたのが頓挫して、『男は男だ』で注目を集め始めていたブレヒトに注目。カフェでたまたま出くわしたというが、おそらくは互いに策士同士、待ち伏せしていたのだろう、アウフリヒトはブレヒトの用意していった提案に心そそられた。

実はそのまた発端は、その頃のブレヒトの女性秘書エリーザベト・ハウプトマンが一九二六年にロンドンでリヴァイバル上演されヒットした一七二八年のジョン・ゲイ作『乞食オペラ』に注目してドイツ語に翻訳、ブレヒトが片手間にその改作を始めていたことだった。これなら杮落しに行けるぞと直観したブレヒトは、それでアウフリヒトに話をもちかけ、歓心を買うことに成功した。すでにソング劇『マハゴニー』を共作していた作曲家のクルト・ヴァイルを誘って、決まっていた初日(アウフリヒトの誕生日!)目指してブレヒト夫妻とヴァイル夫妻は二八年夏に南仏の保養地で缶詰めになって大車輪で台本と作曲を完成。ただし慎重な策士のアウフリヒトは、現代音楽「新音楽派」のブゾーニの弟子で無調音楽風のヴァイルの作曲に危惧を抱いて、いざとなったら『乞食オペラ』の原曲を使うことも準備させていたらしい。

八月三一日に幕があくまでは、まさにご難続きだった。ポリー役のカローラ・ネーアーは夫の作家クラブントが直前に逝去、急遽短期間でローマ・バーンが代役をこなすことになったり、ブレヒトの妻ヴァイゲルは娼婦の館の女将役だったのだが、盲腸炎となったため、この役のパートがすべてカットされてしまった。役者はさまざまなジャンルの混成で、主役メッキース役はオペレッタ役者のパウルゼン、夫ヴァイルの押しでジェニー役でデビューしたロッテ・レーニャはいわゆるキャバレー歌手、初日のパンフに名前が落ちていてヴァイルが激怒したと言う逸話もある。

ともあれ辻褄の合わない箇所も何とか取り繕った急拵えの新作だ。一九二二年にブレヒトのデビュー作『夜打つ太鼓』を演出したエーリヒ・エンゲルと旧友の舞台美術家カスパー・ネーアーが頼りで奇跡的に幕を開けた初日、失敗は必定と思われていたのに、意外にも客席は途中から、歓呼と賞賛でどよめき始めたのだった。必死のドタバタ感が逆によかったのかもしれない。

 

 ジョン・ゲイとブレヒト

その『三文オペラ』は、盗賊と乞食と娼婦の世界のお話で、もともとの原作は二百年前のジョン・ゲイの戯曲と作曲家ペプシュにもとづく『乞食オペラ』(一七二八)。一八世紀初頭に硬直化したイタリア・バロック宮廷オペラ、とくに華麗なヘンデルのオペラに対して明確に反旗を翻して新しいジャンルとして登場した、三幕の音楽劇(バラードオペラ)だ。風刺的な喜劇で、当時流行していたバラードやモリタート、流行歌などの歌謡やオペラのメロディをパロディ化して新たな歌詞が付けられ、大ヒットした『乞食オペラ』に倣って、多くの市民的・民衆的な娯楽音楽劇がつくられたが、このバラード・オペラの影響を受けてドイツに起こったのが、「ジングシュピール」と名づけられるものでもある。その代表格がモーツアルトの『魔笛』(一七九一)だろう。ブレヒトも、二〇世紀初頭のオペラや演劇における音楽の在り方を疑問視し、エンゲキTheaterをエゲンキThaeter,オンガクMusikをオガンクMisukとわざと言い換えて、新しい音楽劇ソングプレイの可能性を探っていた。二百年を挟んで、両者の想いは重なっている。

さらに言えば、このバラードオペラ『乞食オペラ』は、痛烈な政治批判・風刺の機能も果たしていた。一八世紀初頭は英国経済のバブル期で、株価も乱高下し、それに巻き込まれた商人や政治家のスキャンダルも相次ぎ、渦中のウォルポール政権や腐敗した時代風潮も、この『乞食オペラ』では痛烈に批判・揶揄されている。その成功に気を良くしたゲイは後日談『ポリー』を書いたが、こちらは発行禁止処分を受けた。

興味深いのは、その二百年後のブレヒトの『三文オペラ』の初演時の頃も、一九世紀末(1871年)のプロイセンドイツ帝国の成立で泡沫会社乱立のバブル期だった。『三文オペラ』初演のシフバウアーダム劇場も、その時期に建てられたロココ風のバブル成金趣味の遺産である。そして、一九二九年には、NYウォ―ル街の金融恐慌で、株価の大暴落が世界恐慌を引き起こし、ヒトラー政権や第二次世界大戦への引き金になっていく時期でもあった。近代資本主義の右肩上がりの興隆期とその没落期への転換点が、合わせ鏡になっているともいえる。

ゲイの『乞食オペラ』は邦訳(海保昌夫訳、法政大学出版局、一九九三年)もあり、それとブレヒトの『三文オペラ』の詳細な比較検討に関しては、岩淵達治著の『《三文オペラ》を読む』(岩波)セミナーブックス44』(1993)も参照して頂きたいが、そんなこんなのこういう重なり方も、それをたまたまエーザベト・ハウプトマンが目にし、耳にしてドイツ語に訳していて、時代風潮とアウフリヒトの野心的要請にピッタリはまったというのも、偶然が必然に転換する大きな要因であった。ブレヒトのそういう目の付けどころこそが、勘と運の良さだろうか。まさにミラクルである。

 

しかし、ブレヒトはジョン・ゲイをそのまま踏襲しているわけではない。ソングの歌詞は殆どがブレヒト作で、しかもフランソワ・ヴィヨンの独訳を勝手に無断借用したことが後に裁判沙汰になったりしたりと、かなり杜撰なやっつけ仕事ではあった。内容の方も、けっこう微妙にずれている。ところは同じロンドンだが、ゲイの原作がウォルポール政権時代の一八世紀前半であるのに対し、ブレヒトビクトリア朝(一八三七―一九〇一)時代におきかえた。具体的な指定はないが、とくにメッキースとタイガー・ブラウンが唄う「大砲の歌」で、二人はインドの植民地軍以来の大親友、「喜望峰からインド南まで」、つまりボ―ア戦争(1899-1902イギリスと南アフリカボーア人の戦争)で戦い、イギリスが植民地化で大英帝国を築き上げていく時代であることが示唆される。何故なのだろう。ロマン主義的で牧歌的な近代資本主義の変質過程だ。

 

ブルジョアへの揶揄

「『三文オペラ』への覚え書き」でブレヒトは、この作品が内容として、ブルジョア的発想をまな板に載せて検証していることを何度も強調している。ピーチャムが悪党なのは、彼の抱く世界観にある。ポリーはピーチャムの娘で、マックに惚れても父親の会社の社員である。「盗賊メッキースは、ブルジョア市民的性格をもつ人物」として演じられなければならない。盗賊はブルジョア市民ではないから、ブルジョア市民は盗賊ではない、というロマンチックな誤解は、ビジネスマン・メッキースを成立させない。「警視総監ブラウンは、非常に現代的な人物である」。.私人としての彼と公人としての彼は、その分裂を使って生きている。等々。

場所は大英帝国に成りあがろうとするロンドンの下町、主人公は、匕首マックこと盗賊団の首領メッキース。芝居は、そのマックの悪業を並べ立てる歌を大道演歌師が手風琴で歌う序幕から始まる。第一幕では、ロンドンの乞食の総元締めピーチャムの娘ポリーがマックと結婚してしまう。それを知ったピーチャム夫妻は娘を取り戻そうと、マックを警視総監ブラウンに密告することを画策。第二幕、夫の一大事を知らせに駆け付けた妻ポリーに盗賊商売の仕切りをまかせて、マックは遁ずらをはかる。そうはさせまいとピーチャム夫妻は、マックの昔からの情婦で娼婦のジェニーを買収。木曜日の習慣で娼婦の館に現れたマックをジェニーが裏切って、ブラウンは仕方なく戦友マックを逮捕。しかし恋人の一人だったブラウンの娘ルーシーの助けで脱獄する。第三幕、ピーチャムは今度はブラウンを、逮捕しなければ女王の戴冠式に乞食たちのデモ行進をしかけるぞと脅す。再度のジェニーの裏切りで再逮捕されたマックは、ついに絞首台に送られることになる。ところが、その間一髪のところで馬に乗った女王の使者が到着して恩赦を伝え、しかもマックは城と終生年金つきの貴族に叙せられて、めでたし、めでたし、というお話だ。

その全三幕九場の間に、風刺とパンチとリズムの利いたクルト・ヴァイル作曲の愉しいソングがふんだんにはさまれている。「一人、二人を殺せば人殺し、たくさん殺せば英雄」、「銀行設立に比べれば、銀行強盗などいかほどの罪か」――台詞と曲は数々の名文句でぴりりと的をついて客をくすぐり、今でもしっかりリアルで小気味がいい。しかもふんだんに挿入されるソングは、劇伴音楽などではないどころか、語りの地平を異化し、からかいと風刺で客観化し、はやり歌や大道演歌の節回しにオペラやタンゴのパロディ、アメリカン・ジャズが加わったヴァイル独特の甘美で親しみやすい音楽にのって唄われる。各幕は贅沢なフィナーレ付き。ジャンル規定もはねのけるほどの受容力とクロスオーバーのヴァイル流の自在さが、受けないはずはなかった、とも言える。

 しかし揶揄したつもりの相手に大喝采されたブレヒトは、映画化に際してはマックが強盗業から合法的な銀行家に鞍替えし、ピーチャムとブラウンも手を握って仲間になるというさらに先鋭なシナリオ『瘤』に書きかえた。だがネロ映画会社に拒否されて訴訟をおこす。中途で示談金を受け取って引きさがったが、そのお金は後にブレヒトの映画『クーレ・ヴァンペ』の資金となり、その訴訟経過は映画産業の社会学的な考察『三文裁判』としてまとめ、しかも映画のシナリオはこっそり友人たちに書かせて目論みは達成(『瘤』ではブラウンが乞食のデモの群れをいくら排除しても仕切れない悪夢を見る場面は秀逸だが、パープストの映画では、ピーチャムが乞食を先導する演説をぶっているところに、メッキースが銀行頭取に就任したことをピーチャム夫人が知らせに来たので、急遽、乞食の行進を押しとどめようとするのだが、もはや押しとどめられない、という場面に代わっている!)、亡命期にはこういうことをさらに詳細に分析する長編『三文小説』まで完成させた。

ブレヒトらしい二枚腰どころか数枚腰。あだ花はあだ花でも、『三文オペラ』はたっぷり毒をはらんだ時代の大輪の「夜の華」、生産的な成功作で文字通り時代を切り取った「おいしいやっつけ仕事」だったのだ。

 

 冒頭で歌われる「モリタート」

知らないよという方も、譜や台詞を口ずさんでみると、聞き覚えがおありだろう。「匕首マック」、あるいは「マック・ザ・ナイフ」の名前で、今ではジャズのスタンダードナンバーにもなっている。かつては紅白歌合戦でもよく唄われた。 同じ年に出たレコードと楽譜も爆発的な売れゆきで、この「モリタート」も巷間で広く口ずさまれ大ヒットになった。

 「モリタート」というのは、歳の市や教会の縁日で戦争や犯罪、災害といったニュースを物語詩(Ballade)に仕立て仕立て、手風琴で台(Baenkel)の上でそれを歌いながら瓦版のようなビラやちらしを売る大道演歌師(Baenkelsaenger)が、なかでも好んで歌った「殺し(Mordtat)」を扱った「殺人物語大道歌(Moritat)」のことで、一六~一七世紀頃からいわば民衆のクチコミがマスメディアのような役割も果たしてきたのだが、この形をそのままブレヒトは『三文オペラ』の冒頭で使ったわけである。

もっともこの歌は、主役メッキー・メッサー役の役者パウルゼンの持ち歌をもう一曲ふやしてほしいという要求に、逆にメッキースの悪業を冒頭で並べたてる形でブレヒトとヴァイルが即座につくって、しかも結局は別の役者によって歌われたのだが(『三文オペラ』の成立事情に関しては岩渕達治・早崎えりな著『クルト・ヴァイル』、ありな書房参照)、俳優の見栄の産物ともいえるこの「モリタート」がかくもポピュラーになったのは、皮肉といえば皮肉である。それにはモリタートという形式とヴァイル作曲のもつ大衆性の果たした役割も大きいであろうが、それにしてもこの歌詞はちょっと不思議な気がする。

 

「匕首伝説」のひっくり返

 ゲイの原作同様、ブレヒトの『三文オペラ』にも当時のアクチュアルな問題への揶揄がふんだんにちりばめられているが、この「匕首マックのモリタート」も、一方では一九世紀末にロンドンで起こった猟奇事件=売春婦連続惨殺人犯「切り裂きジャック」を想起させながら、他方で、当時さかんに喧伝された「匕首(あいくち)伝説」への挑戦・異化なのではないかとの推測が浮かぶ。

「匕首伝説」とは、第一次大戦後に国家主義的な陣営の側で主張された、一九一八年のドイツの第1次大戦の敗北を説明する言葉だ。「ドイツは戦争に敗けたのではない。背後から匕首で刺されから敗北したのだ」。つまり匕首=革命が、内側からの裏切りとしてドイツを敗戦に導いたのだとする説で、右翼陣営が主張した左翼つぶしの言説である。敗色濃厚な戦争末期、国内で反戦の気運がたかまり、ロシア革命を横目に見つつ、一九一八年一〇月キール軍港の水兵の暴動を契機にドイツ革命がおこり、その波紋は北ドイツから南西ドイツにまで拡がっていくが、白衛軍・政府軍によって鎮圧される。そして、ベルリンではカール・リーブクネヒト、ローザ・ルクセンブルクミュンヒェンではクルト・アイスナーなどの指導者が殺害された。このように匕首伝説は実態とは対応していない。そこをブレヒトは、逆手に取った。

 匕首マック、ドスを白い手袋と紳士のいでたちで隠し、殺しや悪業の背後に姿をかいまみせながら決して証拠は残さない、金と教養と気取りで暴力とニヒリズムと裏切りを覆い、下層の庶民の味方のふりをしながら警視総督とは無二の親友――メッキースの体現するそんなブルジョア市民階級のエゴイズムの論理とメカニズムは合法化された悪行であり、絞首刑になんかなる性質のものではないのだ。それが一九二〇年代に勃興したブルジョア階級の実態だ。だからハッピーエンド。だけど本当は匕首を隠しもっていたのはそっちじゃないか――「モリタート」でブレヒトは冒頭から、そんなひっくり返しを目論んでいたのではないだろうか。

「匕首伝説」を下からの革命を鎮圧した構造へと、あるいはヒトラーの政権獲得につながった構造へと逆転させるかのようなブレヒトの異化。だって『三文オペラ』の登場人物は盗賊に乞食に娼婦、もろに最下層階級のルンペンプロレタリアート、今のネグリ/ハート流にいえば「マルティチュード」、あるいは99%だ。その民衆が分化して、一部がいかにブルジョア階級に成りあがって行くか、行ったか。『三文オペラ』と「匕首伝説」の連関―、そんなこんなを考えさせる謎を多様に孕むのが、ブレヒトの作品だと思えるからだ。

 

三文オペラ』は実は女たちの芝居

 しかしここでもうひとつ強調したいのは、『三文オペラ』は実は女たちの芝居ではないかというお話だ。

 もちろん『三文オペラ』の主人公は、匕首マックことメッキース氏である。白い革手袋に匕首かくし、象牙の柄のステッキに黒い帽子、しゃれたいでたちで毎週木曜日には娼婦の館におでかけし、警視総監とは無二の親友、自分の手は決して汚さぬ盗賊団の首領。「イヨーッ、色男!」と声を掛けたくなるほどのモテモテぶり。

 だけど、『三文オペラ』は、ほんとは、女たちの芝居ではないか。彼女たちの、何といきいきしていることか。

 まずは、やっぱり、ポリー。

 親にも内緒でメッキースと結婚式をあげたポリー・ビーチャムは、そのわけを、三人称の「バルバラソング」の形でこう両親に説明する――どんなに金持ちで親切で礼儀作法を知っている男でも、今までいやと言い続けたけれど、でもある日、あの人がやってきて、私の部屋の釘に帽子をかけたら、それから先はおぼえがないの、お金持ちでも親切でもないし、レディの前での礼儀作法も知らなかった、でも私、言えなかったの、いやとは――。

 金にも世間体にも眼もくれず、愛情いちずに、はじめての男メッキースと結婚してしまったかのようなポリーだけど、「でもあの人、実入りはいいのよ。……ちゃんと私知ってるの、貯金がいくらあるか、数字をあげて説明することだってできる。それに見込みのある商売にも手を出してるし、だからみんなして、田舎の小さな別荘に引っ込むこともできるわけ、おとっつぁんの尊敬しているシェイクスピアさんみたいに」と、父親を説得する。しっかり計算はしているわけだ。しかも、「俺が老後の最後の頼みの綱にしているあの娘を手放したら、この家はつぶれる、最後の運も逃げていってしまう」、そんな父親の思惑なんぞ、おかまいなし。「この恋は誰にもわたさない、だって恋はこの世で一番、尊いんだもの」。恋と計算と、盗賊団の親分の女房ならどんな人生になるのかしらの冒険心。誰だっておしきせよりは、自分の人生を生きたほうが、面白い。婦人参政権男女雇用機会均等法もなかった時代なら、女はそれなら、面白い伴侶を選んだ方がてっとり早い。メッキースにほかにたくさんの女のいることなど、百も承知、二百も合点。純情ポリーは、どっこい自立した、しっかり女性なのだ。

 ポリーのしっかりぶりは、随所にあらわれる。

 第一.ポリーを失うくらいならその前に未亡人にしたほうがいいと、絞首刑にメッキースを密告しようとする父ビーチャムの企てを知ったポリーは、さっそくメッキーススにそのことを知らせ、身を隠すように促す。ここまでは愛のため。

 第二.ずらかるにあたって盗賊商売の指揮を妻ポリーに託そうと、メッキースは元帳、手下どもの人頭帳などを説明。すすりなきながらポリーは、それをしっかり受けとめる、「あたし、歯をくいしばって、よくお商売に気を配るわ、あんたの物はもうあたしの物なんだもの」。これも夫のための妻のつとめ、銃後の義務。ただし蛇足ながら、たとえばドイツでの婦人参政権は、第一次世界大戦中に銃後を守った女たちの権利意識にも、基づく。

 第三.夫の不在中の指揮をおおせつかったポリーは、「ブラヴォー! ポリー万歳!」と拍手喝采されるほどに、手下どもに女親分としての才覚を示す。ここでもうポリーは、おそらくメッキースからも、殆ど自立しているのだ。旅立つ夫をキスで見送りながら、「きっともう、帰ってはこないんだわ」とひとりごちるポリーは、すでにここで殆どメッキースに別れを告げている。結婚式の翌日なのに、たいしたものだ。

 第四.それでも淫売宿に立ち寄って捕まったメッキースを監獄に訪ねたポリーは、そこで恋敵ルーシーと鉢合わせ。女の嫉妬=男の所有権をめぐって、張り合う。敗けてたまるか。女の闘いなのだもの。

 第五。脱獄したメッキースの行方を探して、ポリーはルーシーを自宅に訪ね、あれこれと探りを入れる。そして二人とも行方を知らされていないことがわかって、意気投合。敗けた者同士の連帯感、あるいは男ってくだらないわねぇという女同士の共感。ルーシーの妊娠が嘘だったことを知って、ポリーは言う、「ねぇ、あんた、メッキースが欲しいんならあげるわよ、みつけ次第、お盗んなさいよ」。この、度量、やさしさ、余裕。

 第六.またもや娼婦ジェニーの裏切りで捕まって絞首刑に処せられようとするメッキースを訪ねたポリーは、商売はとてもうまくいっているけど、お金は全部銀行に預けちゃって看守買収のための手もちがないの、という。何とかするわといいながら、何ともしない。だってメッキースは、自業自得なのだもの。そして絞首台にかけられる夫を、皆と一緒に見物する。

 第七.土壇場の馬上の死者の到来で、メッキースに恩赦がおり、しかも世襲貴族の称号と終生年金の付与までが告げられると、「助かった、あたしの大好きなメッキースが助かった、あたしとっても幸せよ」というポリー。そうだろう、これならポリーだって、異存あるまい。終わりよければ、すべてよし。いい気なもの、になれる、この器量。

 ポリーのしたたかさ=実際的才量は、親ゆずりだ。母親シーリアのしたたかさを見よ! それに盗賊団の元締めは、父親の乞食元締め商売と殆ど御同類。娘=使用人として、そのノウハウは、しっかりすでに身につけている。アングラ=暗黒街=裏街道に徹しつつ、いずれは銀行業に鞍がえできる分だけ、父親よりメッキースの方が、それを知っている分だけ、母親よりポリーの方が、より合理的で、より近代的、より市民的というわけだ。経済権を理解して裏で握る女は一層強いのだ。

 警視総監ブラウンの娘ルーシーも、市民=かたぎの娘、ポリーと同様、やくざのメッキースとの恋に、かたぎの人生を超えたロマンを夢見ただろうが、半分やくざのポリーにはかなわない。悲しいかな、生まれ、というより育ちが違うのだ。明日の我が身を類推させるシーリアのような母親は登場しないけれど、私人としてはメッキースの親友でありながら、そこからこっそりある程度の恩恵も蒙りながら、公人=役人としてはメッキースを絞首刑から救えない父親ブラウンの人格分裂と同じように、ルーシーにも、この分裂は超えられまい。こっそり、ある程度のアヴァンチュールは、楽しめる。だけどポリーとの女同士の連帯感のおかげで、男の不実へのけりがつけられる。

 むしろポリーの対極は、ジェニーだ。かつてメッキースとは、ヒモと娼婦で一緒に暮らした仲。「過ぎたことさ、とうの昔、あんたでなければダメだった。あたしが稼ぎ、あんたがせびり、それでもいいの、くされ縁」。過去にメッキースの子を宿したことまでありながら、数ある愛人のひとり、暗い日々の時代だけの道づれ。今ではあいつは盗賊団の首領に成り上がり、ジェニーは娼婦のまんま。でも今でもメッキースはジェニーのお客で情人=アマン。そのジェニーが、メッキースを二度までも裏切る。

 ジェニーはあたりき、おぼこじゃない。人生の酸いも甘いも、裏も表も知りぬいて、やくざの裏街道を、どっこい彼女もしたたかに生きている。たとえば「ソロモン・ソング」で、あまりの知恵、美貌、勇気、好色、好奇心の末路を歌うジェニーは、情も、情に流されることの危険も、善意や道徳のいかがわしさも、裏切りの術も、密告したってメッキースはうまくやってのけるだろうことも、情をかけたって何にもなりはしないことも、あれもこれも知っているのだ。最後の処刑の前の演説で、メッキースはこう言った、「ジェニーが私を売ったのは、私には非常な驚きであります。これこそ世界がいささかも変わらないことの、明白な証拠であります」。どんな仕打ちをしようとも、惚れた女が裏切るはずはない、そんな男の思い上り。女だって、男のずるさにはできる仕返しはするのだ。ざまあ、みろ。だって、裏切りはこの世の掟。女にだって同じこと。だから世界は変わらない。

 ブルジョワ社会は、金(マネー)と恋(セックス)と出世(サクセス)がすべて。株式市場とハリウッド映画と摩天楼(六本木ヒルズ?)がいい証拠。そして、裏(本音)と表(たてまえ)の二枚舌をその基本構造とする。それがブレヒトのいう「ブルジョア的な物の考え方」だろう。合理的で実務的で演技的な感覚にたけたメッキースはその代表格、女王陛下の恩赦をうける資格は十分だ。奴は女たちだって、表と裏で使い分ける。

 結婚は、メッキースにとってもブルジョア市民社会で自分の商売と資産を確実にするための手段のひとつ。すでに数回の結婚を繰り返して、成り上がってきた。身元たしかで財産があって、商売の助けとなる才覚ももった一応かたぎのポリーは、メッキースの結婚相手にはうってつけだ。私有財産は血縁を基盤とする。不在中の商売と金も、使用人には信用がおけないから妻のポリーに託す。おまけに家庭的な楽しみつき。対して、娼婦たちの世界は、かつての故郷、いまの気ばらしで、名声。しょせんはやくざ者同士の気のおけなさ、身についた習慣、ブルジョワ的魔性と見栄、そしてある種のロマンチシズムが評判になることが有利であることも、メッキースは心得ているのだ。しかしそれが落とし穴。ビーチャム夫人は、「色欲の罠のバラード」を歌ってみせる。「人でなしのあいつより、人でなしなのは、女! 否応なしに堕とす、これぞ色欲の罠」。そいつにメッキースは、はまりこんだ。

 だましたつもりが、ちょいとだまされて――。盗賊と乞食と娼婦は、暗黒街の三大要素、それがブルジョア市民社会の合わせ鏡でもあるのだが、この娼婦たちの世界はひと味違う。  

この頃、あるいは資本主義が女・子供の労働力まで必要としはじめる十九世紀末までは、職業婦人とは、家業を手伝う以外は、未亡人か娼婦でしかなかった。娼婦たちは生産手段の所有者でしかもアウトロー。メッキースのようなサクセス志向もないから、なぜか搾取する元締めもでてこないから(ヴァイゲルの盲腸炎のためその役のパートが消えた!)、一種コミューン的な解放感がある。女同士の連帯感。この気楽さ、のびやかさは、しかしたとえばポリーやルーシーのそれとも通底していないだろうか。女であることの快楽。そういう言い方もあるだろう。女たちは絞首台に送られるほどの責任感からも、恩赦の特権からも、いやそういう世界観から、自由なのだ。

そういう状況は、一九二〇年代のフェミニズムと女性解放運動からも生まれた。あるいはそれは、E・ハウプトマンが女性秘書としてこの作品の密接な協力者となっていることとも関連するのではないだろうか。女性協力者たちが関与するようになってから、ブレヒトの作品は、まなざしが根底から変わっていったという気がする。

「モボ」や「モガ」のモダニズム時代を経て、今はどうなっているのだろうか。

 

      *   *   *   *

 駆け足で雑多な「三文オペラ」ワールドを経めぐったが、『三文オペラ』はかくもギリギリに成立したミラクルさの万華鏡だったのだ。一九二〇年代という時代も、それを舞台に創りだした登場人物たちも、作家、作曲家、女優/妻たちも、あるいは芸術性も娯楽性も、恋愛やセックスも、強請(ゆす)り・たかりや居直り、嘘も誠(まこと)も、本音と建前も、言葉と音楽も、実に豊饒でしたたかに猥雑で人間的であった。それゆえこそのエネルギーに溢れているのだ。