谷川道子ブログ

東大大学院修了(ドイツ演劇)。東京外国語大学教授。現在、東京外国語大学名誉教授。

 

三文オペラ』補遺!

 

前回の「マンスリー演劇講座」のブログについて

ハンブルグ在住の原サチコさんから、訂正メールが届いた。ニコラス・シュテーマン演出の『三文オペラ』と日本人女優原サチコのポリー役でのデビューは2002年ハノーファー演劇場が初演で、2011年からケルンで再演されたと。わがケアレスミス!ちゃんとフォローして下さっている、さっそく訂正をと思い、全体も改行や小見出しを入れたりと多少読みやすくして全体を差し替えた。が、何故か同じものがいくつも・・・ヘルプ!

 

昨25日、博多から旧友が観劇に上京してくれたので、3度目の本番観劇。観るたびに細部も全体も進化・成長してあきない。なるほど、そうきたかと…にやりとしたり!

もうあと3日、3ステージかと思えば、名残おしさは募るが、意味の確認は必要だろうか。

 

その日の夕刊に、山本健一さんが劇評を書いて下さった。新訳;新演出ながら「原典に忠実と言うか、ブレヒト劇の上演にふさわしい大胆な読み替えはない」・・・そのことについて、少しだけ補足させてほしい。前ブログでも触れたように、たしかに世界中で、日本でも、さまざまな『三文オペラ』がカバー、映画化、上演されていて、それは個人的には歓迎すべきことと思っているのだが、多少の表や裏の事情がある。

 

 『三文オペラ』受容史

初演前後(ロングランで俳優が代わったり)のてんやわんやの成立事情もあって、この作品自体が「ワーク・イン・プログレス」の様相をなし、たくさんのヴァ-ジョンがある。しかもブレヒトは、パープストの映画化にあたって、ネロ映画会社からは拒否されたが映画シナリオ『瘤』や、発展形の浩瀚な小説『三文小説』も書いている。『屠畜場の聖ヨハンナ』も、ブレヒトの問題意識では、同じ延長線上にある。生前のブレヒト自身の『三文オペラ』再演がなかったこともあって、いわゆるお墨付きの「定番」や「定本」がないのだ。

 

最初に本になったのはキーペンホイエル社から出た「試み」第3分冊。ブレヒトの版権を一括管理するズーアカンプ社は、一九九八年に生誕百年記念の30余巻のベルリン版ブレヒト大全集を出したが、これにはそのキーペンホイエル社版が採用されている。今回の光文社文庫でもそれを使って邦訳した。だが、東西ドイツに分かれていた時代はなおさらに、いろいろな全集や選集が出てもいる。しかも、東ドイツ時代はブレヒト未亡人ヴァイゲル率いる劇団ベルリーナー・アンサンブルとブレヒトの遺産継承委員会が権威を持っていて、旧西ドイツや西側での「勝手な」上演にクレームをつけて上演中止にしたり・・・・

のみならず、『三文オペラ』のヴァイルの作曲の版権は、ウイーンのユニヴァール出版がもっていて、レコードのカバーやコンサート、楽譜なども自立して売れに売れた。また、アメリカで1952年にマーク・ブリッツスタインの名訳とレーニャのジェニー役で、何とレナード・バーンスタイン指揮で、まずはブランデイス大学でのコンサート版として上演され、それを契機に1954年にニューヨークはリス劇場で『三文オペラ』として上演され大ヒット、それがオフ・ブロードウエイ誕生の契機ともなって、「マック・ザ・ナイフ」や「海賊ジェニーの歌」をはじめ、アメリカで人口に膾炙する大ヒットナンバーにもなっていく。未亡人としてヴァイルの名声の復活に力を注いでいたロッテ・レーニャの尽力がみのって、世界の『三文オペラ』の時代が到来。クルト・ヴァイル遺産継承委員会もできて、人気とともに『三文オペラ』の上演料は高くなり、台詞や音程の変更を認めない上演権取得はますます厳しくなった。それが逆にさまざまな「海賊版」というか、自由な翻案上演に拍車もかけた。未亡人戦争と言われたり、東ドイツvsアメリカ・ニューヨークの文化代理戦争の様相も呈して・・・そもそも『三文オペラ』とはどういう作品で、どんな位置と可能性を持っていたのかさえ、見えなくなっていった。ブレヒトもヴァイルも没後50年経っているから、版権も切れたかとも思っていたが、いまなおクルト・ヴァイル・ファンデーションは健在で、『三文オペラ』の上演権料は高いと聞く。

 

原典・原点への回帰の意味

「ポストドラマ演劇」の時代に、何をいまさら「原作に忠実な上演」か、と言われていそうだが、逆なのだ。今だからこそ再度、『三文オペラ』の原典と原点に立ち返って、ブレヒトとヴァイルが何を試みようとしたのかを探る意味はあるのだ、あったと思う。

ツイッターなどを覗くと、『三文オペラ』という作品の意味が初めて分かったとか、お名前を書いていいのか…ブレヒト/ヴァイルの曲をいろいろにカバーもしておられるT.Kさんが、「第3幕のフィナーレ」の意味が初めて分かったとつぶやいて下さっていた。

私は自分のブログで、「三文ドラゴン」といういい方をわざとキ―ワードのように使ってきたが、ピーチャム夫妻を中心とする乞食ワールド、メッキースの泥棒団、ジェニーを中心とする娼婦ワールド。背後に警視総監ブラウンが率いる警官たち――そのすべてのお話が女王の戴冠式をめぐって、大きな鉄骨鉄橋のようなシンプルでダイナミックな舞台装置のなかで展開するために、それが龍のように見えて、それぞれの世界がくんずほぐれつするこの世の集団力学、いわば民衆のエネルギーの化身のような『三文オペラ』という龍=ドラゴンが本当に生命を得てうごめき始めるように見えてくる。

第3幕のフィナーレでまた登場人物の全員によって、「これですべてがハッピーエンド」、「現実の世界ではこうはいかない」、「不正はあまり追及すると、この世の冷たさに、凍りついてしまう」と輪唱・合唱される。二重三重にこの世の嘘と真のからくりが引っくり返って問われ、笑い飛ばされる。ブレヒトの歌詞にヴァイルが作曲した23の歌=ソング=曲が、実は全体をコメントしつつ、引っ張って行くドラゴンだった。

ブレヒトとヴァイルの共同作業が目指していたものが、90年後にまた浮かび上がって来る。ヴァイルの側からまた『三文オペラ』を読み直す契機となる。大田美佐子さんの『ヴァイル評伝』が完成したら、また、その意味が語り直される機会がくることも楽しみだ。バレエ『小市民の七つの大罪』もソングプレイ『小マハゴニー』も日本で観たい!

 

ここから再度、1920年代の『三文オペラ』の意義が、21世紀に復活していくのだと思う。脱構築は、しっかりした構築なしにはあり得ない。