谷川道子ブログ

東大大学院修了(ドイツ演劇)。東京外国語大学教授。現在、東京外国語大学名誉教授。

鳥取の「鳥の劇場」の大人の『三文オペラ』

    ―地域と生活に根付きつつ、世界へ―

 

 10年ぶりに雪の鳥取、「鳥の劇場」を再訪しました。拙著『演劇の未来形』でも紹介していますが、彼らとの付き合いもけっこう長くて深い。その続編を!

利賀村演出家コンクールでの出会い

 劇団主宰者中島諒人さんたちとの初めての出会いは2001年、SCOT(鈴木カンパニー・オブ・トガ)が主催する利賀村での「演出家コンクール」。前年に始まって01年はH・ミュラー作『ハムレットマシーン』が課題作の一つになっていたので、翻訳者としては行かざなるまいと観に行ったのが始まりでした。

 なかでもこれは何だと気になったのが、当時は「ジンジャントロプスボイセイ」と突っ張った名前のグループで、学生劇団出身らしく、中島諒人演出のハイテクを駆使したモダンでとんがった舞台は私にはけっこう面白かったのですが、鈴木忠志御大にはお気に召さなかったらしく見事に落選。「あの頃は意地みたいに『ハムレットマシーン』ばかりいろいろやっていた」そうで、来日した『ポストドラマ演劇』の著者レーマン教授を稽古場にお連れしたりしたものの、03年の「演出家コンクール」に捲土重来。今度は俳優を主体にした『人形の家』で見事に優勝。で、しばらくは東京や静岡で演劇活動を続けていたが、そういう根無し草のような都会での活動に見切りをつけられたか(勝手な解釈で失礼!)、2006年に中島氏の故郷の鳥取に舞い戻って、そこを拠点に「鳥の劇場」を開始。しかし、半端ではなかった!

鳥取鹿野町での「鳥の劇場」の船出

 まずは2006年4月に鳥取市鹿野町の廃校の旧鹿野小学校体育館を稽古場・劇場として、7月からは同じ敷地の旧幼稚園を事務所などに利用できるように手作りでリノベーションしてスタート、08年にNPO法人を獲得。建物は公の所有の無償貸与でも、劇団の運営は地元やサポーターの支えという民の意志による、民設民営の劇場にして劇団、というユニークで意地でも豊かな自立の、ここにしかない「鳥取の劇場」であろうと願っているのが「鳥の劇場」!「演劇、劇場というものが、生活を豊かにし、未来をつくるために意外と大事なものかもしれない。そのことを鳥取の地で証明してみたい。無謀な挑戦だが、社会から必要とされるものならば、生き残れる」と謳う。なるほど、半端ではない、いい度胸といい覚悟だと納得したものだ。

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 08年度から県や市と協働して地域と世界に開いた毎夏の「鳥の演劇祭」を開始…。実際にはどういうことなのかと気になった私は、その2回目を訪れた。空路ながら初めての山陰の初秋の旅という風情の、2009年9月のことだった。

 鹿野町は2004年に鳥取市と合併した人口4000人弱の風情ある城下町。JRで鳥取駅から1時間弱。公演の時は最寄りのJR浜村駅から劇場の無料送迎バスが出て約15分。演劇祭のコンパクトなパンフレットには、スケジュールや地図、お勧めスポットに宿の紹介、さまざまな体験プログラムまで掲載されていて、2週間のこの演劇祭全体が、演劇と自然や文化や地域を知って楽しむ「旅」として構想されているのだ。便利や効率など無視して手間暇かけてゆっくりと体験し、よろずと生身で出会う。詳論の余地はないが、演劇の演目も日本だけでなくルーマニアや韓国からの客演、全国公募での劇団による「鳥の演劇祭ショーケース」、参加者を募って専門の振付家と作品を創り披露する「とりっとダンス」等々、さらに演劇や文化をめぐるシンポジウムやトーク、こんな贅沢な演劇文化体験はないかな。

鳥の劇場」での『母アンナの子連れ従軍記』

 実は「鳥の演劇祭」を訪ねたのは、ブレヒトの『肝っ玉おっ母』あらため拙訳の『母アンナの子連れ従軍記』を2010年1月に上演したいのでよろしく、というオファーを受けて、東京の1000の客席の栗山民也演出・大竹しのぶ主演の新国立劇場の大劇場公演に対し、客席200の大きな小劇場というのを見ておきたかった、ということでもあった。2009年12月には、観客へのプレ・ブレヒト・レクチャーに呼ばれ、率直でキラキラした観客の好奇心にも触れた。稽古も見せてもらった。MC役のようなブレヒトさんを配して娼婦イヴェット役の中川怜奈に重ね、現在との時間的・空間的距離を観客に考えて貰おうという構成に、「翻訳劇」を超える工夫を感じた。

 そして本番の1月には、我が教え子秋野有紀が東京外語大の博士論文を留学中のヒルデスハイム大学との共同学位にしたいということで、その公開審査会にドイツ文化政策の権威のシュナイダー教授の来日とも重なったので、審査会を終えた慰安温泉旅行もかねて総勢10名の観劇ツアーを企画。ついでというか、神戸大の藤野一夫教授をはじめ、これだけの文化政策の専門家メンバーが集まる好機だからと、鳥取大学とも組んで、日独の文化政策についてのシンポジウムまで、観劇後に開催しようと欲張った。上演後の熱気と相俟って、西日本から駆け付けたらしい150名余の観客との議論も白熱し、こんなこともできる「鳥の劇場」の可能性を実感。

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10年ぶりの再訪

 などというような前史も受けての今回の10年ぶりの再訪。この間は、私自身は東京外国語大の定年退職にハワイ大学でのブレヒト学会発表、クモ膜下で倒れての手術にリハビリしながらの奇跡の社会復帰…等々の人生の転機・危機もあって、気が付くと10年近くが過ぎ去っていた、という感じだろうか。もちろん、MLや情報は受け取っていたが、拙訳で『三文オペラ』上演をやりたい、という再度のラブコールも貰っていた。「鳥の劇場」も10周年を迎えていたわけだ。

 神様の粋な計らいに感謝しつつ、2月の公演なので、全日14時開演、鳥の劇場で「どんな大雪でも上演を行います」とのこと。北極にでも行くような重装備で飛行機に乗ったが、さほどの大雪でもなし。10年前からどう変わったのか、変わっていないのか。

 まずは2011年に耐震化工事として、劇場改修がなされていた。雨漏りの屋根や壁の構造に客席もしっかりとなり、照明や劇場床シート張替え、道具倉庫づくり、また手作りながら、建物改修の費用は県や市が支えてくれたとか。それだけ地域に根付いた活動として認められた証拠で、「国際交流基金地球市民賞」も受賞。

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 「鳥の劇場通信」も充実して、「劇場がただ演劇を愛好する人だけの場ではなくて、広く地域のみなさんに必要だと思ってもらえる場になることが、私たちの目標です。演劇創作を中心に据えて、国内・海外の優れた舞台作品の招聘、舞台芸術家との交流、他芸術ジャンルとの交流、教育普及活動などを行い、地域の発展に少しでも貢献したいと考えています」という精神は、随所に行き渡っている。週末や夏休みを使っての小鳥の学校。さまざまな場所での出張上演・ワークショップ。2013年にたちあげた障害のある人とない人がともに演劇をつくる「じゆう劇場」が2017年に「『ロミオとジュリエット』から生まれたものー2017」をフランスはナント市での日仏障碍者文化芸術交流事業で公演するという文化庁の委託事業までやってのけたという。日常的には写真展に映画上映会。呼んだり呼ばれたりの滞在制作に発表会。モノづくり体験にセレクトショップ。等々―20名弱の劇団員でよくここまでやれるなあと思えるほどの多彩ぶり。拓いているのだ。いい覚悟は、やはり半端ではなかった!

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さて、「鳥の劇場」の『三文オペラ

さて最後に、今回の『三文オペラ』の舞台に触れなくては。

ブレヒトの名前を1928年に一挙に世界的にしたこの作品。当時は映画化の伝播もあってもちろん、今なお世界中でさまざまに上演されているが、私自身も両手で足りないくらいに観ているが、その中でもこの「中島・鳥の劇場」版は、風変わりでユニークだった。

 ブレヒトの『三文オペラ』は、200年前のイギリスのジョン・ゲイ作『乞食オペラ』の独訳をもとに、ベルリンのシフバウアーダム劇場の改築杮落し公演に間に合わせて作曲家のクルト・ヴァイルを誘って大車輪で完成させた音楽劇。つまり、原作1728年―改作1928年―上演2018年という三階建て構造をどうするかだ。ネタバレご容赦だが、硬い言い方をすれば、産業資本主義の勃興期―金融資本主義への転換期(1929年には世界金融恐慌!)―グローバル新自由主義の現在? ブレヒトの改作には「男一匹飼い殺すのと、男一匹殺すのと、どちらがたちが悪いでしょう」、「銀行設立に比べれば、銀行強盗などいかほどの罪でしょうか」という有名な名文句がある。色男・斎藤頼陽演じる最後のメッキースの「絞首台での演説」だが、その行きつく先が現在、という解釈だろう。

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 場面はずっと「みらい銀行」の受付職場という設定の装置だ。役者のほぼ全員が今は銀行マンと銀行レイディーズで、舞台前ど真ん中に生演奏のバンドが陣取る中で、18世紀のロンドンが舞台らしい乞食と盗賊と娼婦たちによる『三文オペラ』がロビー公演として上演される構図。十数名の役者で2時間余の舞台に変換するには、なるほどそう来たか、という納得の設定だ。このブログを大人の『三文オペラ』と題打った次第。

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 音楽・ソングをどうするかも思案どころ。ドイツはブレーメンからの参加というオーボエファゴットクラリネット木管トリオのアンサンブル・ココペリ3人の生演奏と、サックス(松本智彦)、ピアノ(渡邉芳恵)、エレクトーン(太田紗都子)演奏をうまく組み合わせて、原則としてヴァイルの曲を使いながら、歌詞もそのなかで唄えるように、アレンジャー武中淳彦氏の腕の見せ所。ものすごく苦労工夫されたというが、これもなるほど。私自身も翻訳において意図的に、ヴァイルの曲に合わせての訳詞はあえてしなかった。音楽・ソングの使い方は上演の位置づけ方次第だから、ともあれ原語でのブレヒトの意図が通るようにと日本語に訳した。これでは歌えないという批判も伺ったが、それは上演集団が考えることだと思うから。この音楽も「鳥の劇場版」になっていた。

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 原作の意図をリスペクトしながら、上演はいまの自分たちの観客に届くように、というのが「鳥の劇場」の基本理念で、公演前にはいつも作品についてのプレトークがあって、毎公演後にアフタートークを欠かさないのも基本姿勢。このときは私も飛び入りで参加させてもらった。

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 劇場を出たところが大きなカフェ・ラウンジになっていて、もちろんバリアフリーで、無料の水にプロの入れるコーヒーとパンやお菓子、劇団手作りのいろんなグッズ。鳥マークのTシャツや根付け、ハンカチ、原作翻訳の文庫、等々も販売。観客は思い思いにおしゃべりしたり、アンケートを書いたり。もちろんここがトークと議論の場。この居心地の良さは何だろう。無料で、送迎車、託児室、ハンド版の字幕、飲み水、大人2000円に18歳以下500円、中学生以下無料なのだ。すべてが観にきてくれる観客のため、ホント、初日は雪でも補助席が出るほどの満員で、子供たちも沢山いたのに、楽しそうに乗って見入っているのだ。こういう配慮あふれる観客つくりがいい。

2026年の20周年へ!

 毎年度の活動テーマがあるというが、今年のそれは「豊かさってのは金のことか?それだけじゃない?じゃあ、もう一度考えよう。豊かさってなんだ?」。そだね~

 10年間の蓄積がこういう形で実っていることに、ホッと嬉しく、これからも息切れしないように、ずっと頑張れと、エールも送りたくなるのだ。10年ぶりの再会の高揚とその間の互いの頑張りを想起しての交歓!2026年の20周年記念も一緒にやろうねと言われ、生き延びられるかなあと。ともにガンバ!!

 

Alles Liebe und Gute fuer das neue Jahr 2018 !!  賀正!!

 小正月も過ぎたのに今頃の年賀メールかとあきれておられるでしょうが、この恒例の遅れ年賀メールがないとブログが新年2018年になり替わりませんので、立春前の寒中見舞い代わりかと、ご容赦を!

 さすがに内容まで年賀モードは憚れますので、とりあえず先日観た、今年初めての舞台、ジェローム・ベルの『Gala –ガラ』について、ちょっとだけ。


 久しぶりの彩の国さいたま芸術劇場蜷川幸雄さんの逝去後には、さいたまゴールド・シアターのその後が気になり、追悼公演『鴉よ、おれたちは弾丸(たま)を込める』の再演だけは観に行った。まだ蜷川さんの魂が漂う舞台でしたが、三回忌も終わって、今回のジェローム・ベルの『Gala –ガラ』で喪が明けたのかなと感じてしまいました。何故か、今年の新年もやっとこれで明けたなとも。

 パリ在住の国際的に活躍している振付家ジェローム・ベル。2011年にF/T(フェスティバル・トーキョー)の締めとして招聘された『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』(以下『ザ・ショー』)が彩の国劇場に、日本にも初登場して、不思議な楽しさでした。2001年に初演され、反響を得て2005年にニューヨーク公演でベッシ―賞を受賞、世界的なツアーを経ての10年後の日本初演。今回の『Gala –ガラ』も、2015年初演後にすでに世界50都市以上で上演され、日本公演の後もツアーが続くらしい。ともに上演する都市でキャスティングして創り上げる、ご当地参加型のダンス、と言えましょうか。

 『ザ・ショー』のときは、踊り手は300名近い応募者の中から26人が選ばれ、ビートルズデヴィッド・ボウイ、クイーンなど、誰でも知っている、日本版のそれも加えた人気ポピュラー・ポップソングに合わせて、自在に踊る形。今回の『ガラ』は、6歳から75歳までのプロのダンサーや俳優、芝居とはまったく縁のないアマチュアまで、年齢、職業、国籍など多種多様な20名の老若男女が、ダンス、ワルツ、お辞儀、ソロ、カンパニー、といった表題の順に即興で踊る。自己紹介的なソロから、それぞれが率いてのカンパニーを創る踊りへと展開。これは、個人と共同体の両極での「踊りの探り」の合わせ鏡か。

 谷川塾のメンバーの越智雄磨さんがもっかベルで博士論文を執筆中なので、時折り話を聞くのですが、元々ダンサーとしてデビューしたベルは、ダンスというジャンルに批評的なまなざしを向けて活動停止し、しばしの間の考察を経て、『作者によって与えられた名前』で振付家として再デビュー。2作目の全裸のパフォーマーが殆ど踊らない『ジェローム・ベル』という作品で注目を集める。「踊らない」ことから初期には「ノンダンス」と評されていたが、ダンスと社会における個人と共同性の関係性を問いかけるこういう試みにとりあえず辿り着いたらしい。ダンサーと振付家、プロとアマ、自己と他者、コントロールと即興、作品と上演…。ゼロ地点に戻ってからの再構築の探りは、前衛/アバンギャルドの辿る道でもあるでしょうが、そう来たかと思わせるある種の納得と解放感がありました。

 その越智さんによるインタビューが上演パンフに掲載されて、そこに曰く、「『Gala』ではダンサーたちの多様性が、次第に作品の中に共同体を成立させ、喜びにあふれたものとして活気づけていきます」――そのタイトルが、「喜びにあふれた多様性が、共同体を成立させる」。その多様性はそれぞれの都市や状況で異なるでしょうが、さいたまバージョンも、不思議な楽しさでした。おそらく舞台も客席も。

 

 プロの領域の「優れた芸術作品」というものとは次元の異なる舞台表現の楽しさというのが、確かに存在する。拙著『演劇の未来形』で、「第2章:演劇と≺教育劇>の可能性――ピナ・バウシュ蜷川幸雄の試みまで」で言いたかったのもそういうことでした。ダンスと演劇を融合させた「タンツテアター」の創始者ピナ・バウシュは、自らのヴッパタール舞踊団の男女の葛藤をダンス化した傑作『コンタクトホーフ』に対して、65歳以上の26人の「年金生活者」によるシニア版と、10代の少年少女たち40人によるテイーンエージャー版を作って見せた。後者は『ピナ・バウシュ――夢の教室』と題するドキュメンタリー映画まで成立させた。「踊ること」がもつ心身解放の意味と力が透けて見える傑作。蜷川が遺した「さいたまゴールド・シアター」もその線上でしょうか。

 

 ピナ・バウシュ蜷川幸雄も故人となりましたが、健在のジェローム・ベルはここにとどまってはいないはず。「自分ファースト」ではなく文化や価値観の異なる多様性が共存し得る社会や世界のための思考や方法論の探りは、いま我々の焦眉の課題でしょう。

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 (c) Photograper Josefina Tommasi, Museo de Arte Modernode Buenos Aires, 2015 
2015年のブエノスアイレスでの舞台写真をお借りしました。

浪速のソーホーの関西弁の若者たちの「三文オペラ」

──演劇教育と公立劇場と地域のウイン・ウインの可能性を考える?──

 近畿大学文芸学部芸術学科舞台芸術専攻の26期生の卒業公演に拙訳の『三文オペラ』をやりたいという依頼を松本修さんから頂いて、上演パンフに短文を依頼され、その一節―。

 「演出の松本修先生に『まんま演らないで、自分たちらしいのにしてね』と伝えたら、谷川翻訳台本の台詞等を、さらに下町感を出すために関西弁にアレンジするという挑戦をしているとか。制作担当の山下君から『関西弁の方がここは聞き取りやすいのでは?ここは標準語のままの方が伝わりやすいのでは?といったように、日々試行錯誤しながら取り組んでおります』というメールも頂きました。ソングだけでなく、台本全体を関西弁にするのだとか。… 谷川翻訳台本ではなく、二六期生翻訳台本になるのではないかなあと・・・ギャラ貰っていいのかなと怖れたり、そうなってほしいというサプライズを期待したり…。

 そもそもが、ブレヒトの『三文オペラ』も、二〇〇年前のロンドンでの当たりソングプレイであったジョン・ゲイの『乞食オペラ』を女性秘書エリーザベト・ハウプトマンが翻訳していたものにブレヒトが手入れ改作して、作曲家クルト・ヴァイルと大車輪で完成させた台本。ベルリンのシフバウアーダム劇場の改築杮落とし公演に間に合うように、台本訂正のみならず、役者や演出家の抗議や交代など、ご難続きでやっと幕を開けた初日に、途中から客席が喝采でどよめき始めた、という。そして、誰も予想などしていなかったメガヒットになったのでした。その頃のブレヒトも、二九歳から三〇歳にかけての、まだまだ血気盛んな若者で、ベルリン留学中の若い千田是也もその舞台を観て、東京で『乞食芝居』として舞台化、世界の『三文オペラ』ブームの一翼を担った! さて近畿大学二六期生の若い『三文オペラ』は、一体どのような初日を迎えるのでしょうか?どんな関西弁に、どんな唄と踊りなのか。わくわく楽しみにしています」。

 ここまで書いたら行かざなるまいで、晩秋にでかけたのでした。いろいろ考えさせられて、行った甲斐は大いにありました。

 2013年の日本演劇学会近畿大学の新しいキャンパスは体験済みでしたが、でも上演場所は庶民的な繁華街の難波の近畿大学会館5F,日本橋アートスタジオとやら――想像と違って昔ながらの古モダンの何もないフラットな多目的ホール、客席100? 開場してから開演前も真ん中に階段付きの二階建ての木造舞台を釘と金槌で仕上げの途上。着替え途中の若者が、そこで椅子やテーブルを運び込んだり、機械仕掛けのカラオケで音合わせしたり・・・そう、もろ楽屋落ちというか、これからここでお芝居やりますよ、旅回り一座が小屋掛け芝居を始めるような・・・原作のゲイの『乞食オペラ』も河原乞食と呼ばれた旅芸人がドサ回りでやる芝居、それを見事に“パクった”ブレヒトの『三文オペラ』とて、オペラのパロディで、先ずは広場の縁日で大道演歌歌手が主人公の名うての盗賊メッキースの罪状を並べ立てる「殺しの歌モリタ―ト」を手風琴で唄い始める序幕から始まる。日本の祭りや歳の市で講談師や演歌師がやる呼び込みでもある。そう、演劇の原点は、これでいい、これが『三文オペラ』なのだ、と思い至った。チープでシャビ―なこの空間こそが、泥棒会社や、盗品で飾り立てた盗賊団ボスのにわか結婚式、やがてそのボスが逮捕処刑される監獄、あるいは娼婦たちが色目を使う淫売宿、の舞台となって、若い俳優たちがこれから出ていく世界をアングラの地下から演じて見せよう、という仕掛けだ。そういう芝居が「モリタート」を皆で歌い始めながら展開していく。そうやって私も、難波の縁日小屋に紛れ込んだように、いつしか巻き込まれていくのだった。うまい導入、まずは納得。さすがの松本演出。

 そして関西弁―。学生たちが自分たちなりに作り上げたというその台詞は無理に作り上げた方言調というより、なんとなく自分たちが日ごろ馴染んでいる地域のイントネーションと言葉(出演者全員が関西出身者らしい)、やりすぎず、遠慮しすぎず、配役に応じつつ工夫しながら、日常的に身についたユルーイ自分たちなりの関西弁になっている。そしてこれは、私たちにも馴染みの七五調のリズム、イントネーション、歌舞伎や浄瑠璃、あるいは落語や漫才の口調。この関西弁のテンポとリズムが、何となく不思議に「三文オペラ」に乗るのだ。「人食い鮫は するどい歯を 面一杯(つらいっぺえ) むき出している だがメッキースは自分のドスを 決して誰にも 見せやしねえ」・・・手風琴の「モリタ―ト」と流しのギターの演歌調は、義太夫節とも通底するのかもしれない。ついつい手拍子で唄い踊りたくなる。音楽はヴァイルの原曲を音楽担当の斎藤歩氏が編曲、三時間余の舞台に合わせて歌いやすいように工夫してあるとか。舞踊の相原マユコ先生の愛ある振付指導もあったらしいし、うまく乗っていた。

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 この近大舞台芸術専攻の学生さんたちはダンスや音楽なども履修できるようになっていて、ま、いまどきの若者は歌って踊らせればけっこう上手くサマになる。全体に肩の力の抜けた楽しい音楽芝居だ。そのリズムに「三文オペラ」を乗せた感じだ。自分たちの土俵に作品を持ってくる賢さ? オペラのパロディだからヘタウマ? ヘタに「演じ」ないからいいのだ! それが心地よく客席まで伝わってきて、リラックスする。

 演出の松本修さんは、ブレヒト生誕百年の一九九九年三月に世田谷パブリックシアター柄本明主演『ガリレオの生涯』で邦訳者としてご一緒させていただいた仲。大きな宇宙儀のような舞台空間でゆったり近代科学の曙から現在までつながる問題系を浮かび上がらせて、彼のブレヒト初演出だったのだが、「ブレヒトの考えている演劇は僕らの考えていることと同じなのですね」と言われ、その後カフカの三部作小説の舞台化が評判となった。この二度目のブレヒト三文オペラ』で、また枠が広がったかなあと・・・その悠揚迫らぬのびやかさは彼の本領だろうが、その彼でさえ、「ゆとり世代」のゆとり振りにはハラハラさせられたようだ。いつまでも出来あがらない関西弁の台本に、「おい、間に合わないぞ」とせかしても、「大丈夫ですよ」と焦らないのだとか。

 私も本番観劇の当日、受付で切符や座席を案内してくれたあの上演パンフ制作の山下君が、まだ着替えも何もしていないのに「僕が今日、メッキース役です」と涼しい顔で言う。「早く着替えなくちゃ」というと「はい、これからメイクします」―-幕が開いたら、真白なスーツに白手袋、象牙の柄のステッキのいなせな紳士ぶりでにこやかに登場して、七・三のポーズで流し目を決める変身振り。たしかに「ゆとりですが、なにか」の肩の力の抜け方かと感心。

 自分たちのテンポに移し替えた『三文オペラ』は、うまくカットしつつ原作通りの三幕構成だったが、最後のメッキースが絞首刑になる寸前に馬上の騎士の登場で恩赦の無罪放免となる幕切れは、すべてピーチャム役の語りと歌の中で、階段の回転やコーラスの動きで語られる。「現実の世界ではこうはいかない、せめて芝居の中ではハッピーエンド」・・・フィナーレも楽屋落ちで、「モリタート」のリズムに乗せながら、役者たちはいつの間にか自分たちの素顔と普段着に着替えて、自分たちのリズムにアレンジしたヴァイルのメロディ―で自由に踊りながら、客席の手拍子も受けながらさりげなくカーテンコールまでやってのけてしまう。

 こういう楽しさっていいなと思った。自分たちらしい四年生の卒業公演『三文オペラ』になっている。アフタートークでは途中から、大阪育ちで関西弁台詞の貢献者でもあったらしいピーチャム夫妻役の中野青葉・田中ひかり両氏も加わって、卒業公演の演目を投票で決めた経緯や、稽古のプロセスやエピソードも語ってくれて、なるほどと・・・納得。上演者の立ち位置の明確な舞台が私は好きだ。そもそもが演劇はワークイン・プログレス。上演者の観客と舞台への立ち位置とプロセスが見えてこそが醍醐味である。作品の版権というのは、たしかに作者と作品の権利を守る近代の優れた成果だが、版権が過ぎればパブリック・ドメイン。それ以上にライブの協働作業の賜物である舞台は、上演者の「今、ここ、我々」の「クリエイティブ・コモンズ」だという思想と理念の運動が、いま展開中である。ハーバード大学の法学者ローレンス・レッシグがアクテイビストとして法的な著作権のあり方に闘いを挑んだことから発していたというが、『三文オペラ』は日本でもしばしば上演権が問題化されるので、あえて一言。ブレヒトはすでにパブリック・ドメイン、そして舞台は本来的にクリエイティブ・コモンズであろう。これは上演の権利を謳う「ポストドラマ演劇」の理念でもある。

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 ここまで書いて、もう一言、蛇足を重ねたくなりました。

 近畿大文芸学部舞台芸術専攻は、演劇創作系、舞踊創作系、戯曲創作系、トッププロデュース系にわかれつつ、それぞれ自由な選択をしながら四年間で、舞台芸術のプロとして通用する教養と技術を身に着けるという。四年で十回ほどのさまざまな舞台を経験し、カリキュラムを見ても、今度の卒業公演を見ても、演劇人のプロを養成している。それなのに日本では、プロの演劇人として受け入れて、育ててくれる場所やシステムが圧倒的に不足している。それぞれにフリーで劇団や作品を創って認められるまで頑張る、という道もあろうが、食べて生活していける保障はない。これだけの演劇教育を受けて人材が育ちながら、もったいない話です。

 演劇王国と言われるドイツをはじめヨーロッパの劇場は主軸が公立で、劇場=劇団=専属劇団。ドイツでは150を数える公立劇場の劇団員は平均三百人。つまり公務員で、劇場収入は必要経費の三割という潤沢な助成金で支えられ、社会の重要な文化の柱として存在している。ヨーロッパ市民社会の根付きの豊かさでしょうか。

 そこまでの道のりは遠くても、日本でも公立劇場の建設が一九九〇年頃からやっと現実となってきた。しかしハード/箱物としての立派な劇場はできても、中身の劇団や何をやるかのソフトウエア―のない状況で、付属劇団のあるのは静岡SPACや兵庫のピッコロ劇団くらいか、どの劇場も少ない人材や予算で、劇場監督や指定管理者制度のもとでそれぞれ必死に模索しているというのが現状だろう。埼玉の彩の国劇場では蜷川幸雄氏が、全シェイクスピア作品上演や、高齢者のゴールドシアターや若者のネクストシアターという拓かれた試みを、彼なりの天才的なやり方で果敢にやってのけて、与野本町の駅から劇場までの路上には、シェイクスピアの名文句の書かれた敷石が夜間には下から照らされ、脇には出演した俳優たちの手形やサインも飾られ、「演劇の街」つくりへの意欲や夢、プライドも感じられたが、そんなこんなのレガシーはどう引き継がれていくのでしょう。気になるところ。

 演劇教育も、千田是也氏が俳優座とともに必死の自前で俳優座養成所を設立し、たくさんの演劇人や新しい劇団を育て、日本の演劇界を支えた。そして演劇教育はやはり大学教育の場で引き受けるべきだとして生まれたのが桐朋学園短期大学演劇専攻。2015年にドイツ人ゲスナー先生演出の卒業公演で拙訳『三文オペラ』も俳優座劇場で上演され、我がブログでも触れているのだが、その時も同じことを考えた。他にも関東には演劇系大学が五つあって五演劇大学連合の連携共同制作公演を行っている。「演大連」というらしい、次世代文化創造の文化庁委託事業だ。私も時々覗くが、2016年に東京芸術劇場で観た野上絹代演出の野田秀樹作『カノン』などもなかなかのものだった。こういう人材が未来形で育っていくには何が必要可能なのだろう。演劇教育の側も、劇場や観客、地域や実践の場との連携を必死に図っている。それぞれの模索の手がウイン・ウインでつながる方法や可能性はあるのではないか。いろんな演劇がいろんなつながりで楽しく広がってほしい。演劇は古今東西の遺産だ。

 

 実は近畿大学のこの『三文オペラ』の卒業公演の時に、たまたま再来年開館予定という東大阪市のホール「創造文化館」に携わっておられる畑中浩明さんという方が観に来ておられてそんな話もしたので、ついついこの文章もそういう連関になった。

 劇場と大学と地域や市民がいい形でともに育て合い、支え合い、学び遊びあうような、結びつき。繰り返しになるが、演劇はワークイン・プログレス。上演者の観客や舞台への立ち位置とプロセスが見えてこそが醍醐味である。そうきたか、そこまで育ったか。学生ならぬ平均年齢77歳の埼玉ゴールドシアターなどはパリ公演までやってのけた。演劇専攻の若い学生や卒業生もその成長の可能性を、地域や劇場や大学が大きな眼差しと度量で引き受けて育ててほしいものだ。

 半世紀も日独の演劇にかかわってきた去り行く老兵としては、語りだせばきりがないほど言いたいことも思いも深いので、「ゆとり世代」から学びつつ、この辺でやめますが・・・ビバ、若者と演劇!! ビバ『三文オペラ』❕

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          写真/石塚洋史

『フジタの白鳥』

もうひとつ、昨年の成果としてぜひともご紹介させていただきたいのは、佐野勝也著『フジタの白鳥―画家藤田嗣治の舞台美術』です。

2015年12月の東京外語大学付属図書館主催の公開講演会「演劇という文化」、その内容もこのブログに転載させてもらいましたが、その時に触れた外語大の語劇プロジェクトにおいて、われらが片腕として頑張ってくださったスペイン語科OBの佐野勝也氏、その後、早稲田大学院に進学して博士論文を仕上げてその刊行を心待ちにしているさなかに急病で無念にも54歳で逝去。あの講演会の日が葬儀でした。前日のお通夜で、親しい友人で、何としても彼の思いを形にしてあげようねと立ち上がったのが「佐野勝也論文集刊行委員会」で、一周忌には間に合いませんでしたが、年明けの一月に上梓されました。

編集は、あの語劇本『劇場を世界に―外国語劇の歴史と挑戦』を同志のようにともに手掛けてくれた原島康晴氏、発行はエディマン+新宿書房、装丁も宗利淳一氏、宇野亜喜良氏が表紙に素敵な挿画も描いてくださいました。とても素敵な本に仕上がっています。

あの画家の藤田嗣治にこんな舞台美術の仕事があったのかという、これまでほとんど知られていなかったそういうフジタの側面を、日本ではほぼ初めて紹介する画期的な本で、その佐野さんの『フジタの白鳥』の書評での紹介もいくつか掲載されました。

4月7日号の『週刊読書人』では、演劇評論家・高橋宏幸さんが、そして4月8日の『日経新聞』では、三浦雅士さんが書評を書いてくださいました。

佐野さんの執念ともいうべき熱い思いと、それを支える皆の思いがしっかりとひとつの素敵な形になったなと、感無量です。そしてこれも佐野さんが思い篤く働きかけ続けてきた努力の成果なのですが、東京シティ・バレエ団が、2018年の3月に50周年記念公演として、藤田嗣治の舞台美術で『白鳥の湖』上演の情報をついにリリースしました。

佐野さんは亡くなってしまいましたが、こうして彼の情熱がマーチを続けていること、多くの方に支えられていること、彼の足跡を感じるとともに周囲の人たちの温かさを感じます。心から皆さんへの感謝と嬉しい思いをこめて、ここにお知らせさせていただきます。

 

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『メイエルホリドとブレヒトの演劇』

『メイエルホリドとブレヒトの演劇』

 

この間の2016年に力を注いだ仕事としては、『メイエルホリドとブレヒトの演劇』があります。ずっと抱えてきて、2016年11月に玉川大学出版部から上梓されました。内容と経緯については、その「訳者あとがき」に触れられているので、了解を得て、そこから借用させていただきます。

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『メイエルホリドとブレヒトの演劇』――訳者あとがき

 

 本書はKatherine Bliss Eaton, Theater of Meyerhold and Brecht, Westport; Greenwood Press, 1985の全訳である。キャサリン・ブリス・イートンは、ソヴィエト演劇と文化の研究者で、本書のほか、著書にKatherine Bliss Eaton, Daily Life in the Soviet Union, 2004、編著にEnemies of People: The Destruction of Soviet Literary, Theatre and Film Arts in the 1930s, 2001がある。

 『メイエルホリドとブレヒトの演劇』の原著は一九八五年にイギリスで出版された。これまで各国の演劇史研究の論文でたびたび参照、引用され、一九二〇-三〇年代の文化史研究において基礎文献の一つとなっている。日本では、本書の編訳者の一人である谷川が、当時『新日本文学』誌の編集長で、御茶の水書房の編集者でもあった久保覚氏からこの本の翻訳を依頼され、早い段階で全訳を行っていた。ところが、久保氏の急逝など諸事情が重なり、その訳稿は筐底に眠ったままになっていた。それ以来、長い年月を経て、二〇一〇年に早稲田大学演劇博物館「演劇映像学拠点」の主催でシンポジウム「メイエルホリドと越境の二〇世紀」(研究代表者、上田洋子)が開催されたことをきっかけに、本書の翻訳計画が再び持ち上がった。このタイミングでシンポジウムに参加していた伊藤愉にも声がかかり、最終的に谷川と伊藤の二人で翻訳を担当する形で今回の出版に至った。

 

 本書の特徴は、タイトルの示す通り、二〇世紀を代表する二人の演劇人、フセヴォロド・メイエルホリドとベルトルト・ブレヒトの演劇実践を関係づけているところにある。いみじくも、イートンが序章で述べているように、一九二〇-三〇年代、世界演劇において名を馳せていたのはブレヒトよりも圧倒的にメイエルホリドだった。ブレヒトに限らず、多くの演劇人たちが肯定・否定の違いはあれど、彼の影響を受けていたのである。ところが、周知のようにソ連時代にスターリンの粛清の嵐が吹き荒れ、メイエルホリドの名は歴史から抹殺され、その存在自体が無きものとされてしまった。一九五五年の名誉回復、そして一九六〇年代のメイエルホリド研究の第一次興隆を経て、彼は再び歴史に戻ってきたが、それでも依然として正当な評価を受けているとは言いがたい。イートンの狙いは第一に、ブレヒトの先駆者として位置付けることで、こうしたメイエルホリドの復権を試みることにあった。もちろん、このような問題意識はイートンがこの本を著した一九八五年時点のものであり、その後ソ連崩壊を経て、多くの情報が公開され、メイエルホリドの活動の実際は次第に明らかになってきている。しかし、日本に目を向けた場合、この問題意識は依然として有効であることは明らかだろう。

 かたやブレヒトは、現代演劇はブレヒト抜きでは語れないと言われるほどに、第二次大戦後、世界中である種「熱狂的に」受け入れられた。「ブレヒトの時代」とでも言うべき現象である。戯曲(ドラマ)と上演(シアター)両極での「叙事的演劇」、「異化効果」など、二〇世紀演劇のキーワードとなる手法を編み出したとされている彼の仕事は、一九六八年からは西ドイツでもシェイクスピアをしのぐ最多上演作家になり、日本でも一九六〇-七〇年代に翻訳・紹介・上演が相次いだ。あるいは単なる作品の受容を超えた「ブレヒトなきブレヒト受容」と言われるような方法論的革新の契機として、一九七〇-八〇年代には世界中で劇作家にも演出家にも、果てはピナ・バウシュの「タンツ・テアター」にも影響を与えた。八〇年代後半には逆に、「ブレヒト疲れ」という言葉が流行語になったほどだ。だが、イートンの主張に従えば、こうした世界演劇史においてブレヒトの「発明」として受け入れられてきた多くの試みが、それに先立つメイエルホリドの実践に確認できるのである。こうした歴史的に後発のブレヒトに対して、本書では、やや皮肉まじりに「《偉大な》借用者(“great” borrower)」という表現があてられている。見方によっては「剽窃」とも受け止められかねないこの表現が意味するところは、しかし、決してネガティヴなものではない。イートンは、アイデアの源泉を指摘しつつも、ブレヒトの業績をメイエルホリドの発明に還元するのではなく、その独自の展開におけるオリジナリティを論じ、二人の演劇人の創作の価値を伝える。両者の手法を具体的に参照し、紹介しながら論じるイートンの記述からは、たしかにブレヒトの実践における「メイエルホリド的要素」を確認できる。だが、その一方で〈借用(あるいは剽窃)/受容〉とその独自の展開は、伝統演劇に想を得て新しい演劇を構想したメイエルホリドにも見られる側面であり、そもそも歴史とはそのように更新されていくものである。こうした受容史は、例えば二〇世紀後半にブレヒトとメイエルホリドの方法を継承したロシア人演出家ユーリー・リュビーモフにもしばしば指摘され、また、日本の鈴木忠志が「本歌取り」と名付けるコラージュの方法も、あるいはハイナー・ミュラーが『画の描写』(一九八四年)の注の中で「補筆彩色(Übermalung)/レイヤー」と呼んだ手法も同様だろう。

 イートンの記述が興味深いのは、こうしたメイエルホリドとブレヒトの関係を、ロシア、ドイツ両国の文化交流史というべき人間関係の中に描き出そうとしているところである。これが本書のもう一つの特徴だろう。たしかにイートンは、メイエルホリドとブレヒトという具体的な名前に限定して論を展開している。さらに言えば、本書で言及されるブレヒトは「演出家ブレヒト」であり、劇作家としての彼の側面は敢えて掘り下げられていない。しかし、こうした個別具体的な演出手法の比較、考察の先には、二〇世前半における重要な文化的コンテクストが拓かれている。この時代の交流史は一方では左翼人ネットワークがあり、また他方では亡命知識人らのネットワークがあり、きわめて広範で複雑だった。本書に登場するベンヤミン、ルナチャルスキー、アーシャ・ラツィス、トレチヤコフといった関係者たちは、そうした交流史において重要な役割を果たした人物たちで、メイエルホリドやブレヒトは、互いに直接的な言及は少なくても、こうしたネットワークの中で確かに近接していたのである。

 実際、一九二〇年代のドイツ・ロシア文化圏における相互交流は実に驚くべきものだった。例えば、メイエルホリドについては、次のような補足も可能だろう。メイエルホリド自身は、国外での上演がやや遅れたこともあり、とくにドイツでの受容に関しては、カーメルヌイ劇場の演出家タイーロフの後塵を拝した。しかしその一方で、イートンが指摘しているように、彼の演劇実践はドイツを代表する演劇人ピスカートア(彼もまた、国際革命演劇同盟(MORT)で活動しており、一九三一年から一九三六年にはモスクワに滞在していた)の思想、演出手法にも影響を与えていた。またメイエルホリド自身も、一九二〇年代後半から一九三〇年代にかけて構想していた未完の新劇場建設プロジェクトの設計において、ピスカートアの盟友でありバウハウス初代学長であったドイツ人建築家ヴァルター・グロピウスがピスカートアのために設計した「全体劇場」の影響を受けていたという指摘もある。あるいは、メイエルホリドが歌舞伎をはじめとする日本演劇の影響を受けていたことはよく知られているが、革命前の時代から彼はそうした情報を主にドイツ語の書物から得ていた。革命後にも、一九二五年にはドイツ人演出家、演劇批評家のカール・ハーゲマンの東洋演劇に関する書籍『諸民族の演技』(ドイツ語の原書は一九一九年出版)が三巻本でロシア語へ翻訳出版されるが、その第二巻は日本演劇に関する内容で、メイエルホリドの近くにいた人間たちはこぞってこの本を読んでいた。

 さらに言えば、近年、主にエリカ・フィッシャー=リヒテ(邦訳、『パフォーマンスの美学』論創社、二〇〇九、『演劇学へのいざない』国書刊行会、二〇一三年)らの活動により再評価を受けているドイツ人演劇学者マックス・ヘルマン(一八六五-一九四二)の「演劇学」創設の活動も同時代的にロシアに影響を与えていた。ロシアでは一九二〇年代にレニングラードの芸術史研究所演劇部門を中心として「演劇学派」が立ち上がるが、これはヘルマンの「戯曲ではなく上演」を分析対象とする「新しい学問としての演劇学」という思想をロシアなりに受容したものだった。このロシア演劇学の活動の中心にいたのが、アレクセイ・グヴォズジェフ(一八八七-一九三九)という演劇史学者で、彼こそがしばしば激論を呼び起こしたメイエルホリドの演劇活動を理論的に支えた、演出家にとって最も信頼のできる批評家、理論家だった。

 このように、二〇世紀前半において世界の演劇を牽引したドイツとロシア両国は互いに影響を与えあい、そうした文化的背景を背負いながらメイエルホリドとブレヒトは活動していたのである(そして、こうした文脈のなかに千田是也佐野碩土方与志村山知義、そして小山内薫といった日本人たちが入り込んでくる)。それゆえ、イートンが述べるように、ブレヒトの「異化効果」という用語がロシア・フォルマリズムに由来するもので、それがセルゲイ・トレチヤコフを通じてブレヒトの演劇理論へと移入されたことなど、彼女の主張の多くが十分な説得力を持っている。ソ連崩壊後の私たちには、ソ連時代は「鉄のカーテン」があって、すべてが遮断されていたイメージが強いが、一九二〇年代、そして三〇年代においてもなお、情報や人的な交流が活発になされていたことをあらためて問い直すことは、この時代の世界の文化・芸術地図を正しく把握するために重要だろう。

 四半世紀前の一九八五年の著作として、現在から見れば、本書は情報の不足や誤認、またそれに起因する論証の甘さなども指摘できる。とはいえ、トレチヤコフやアーシャ・ラツィス、ベンヤミンら、ロシア演劇に関するブレーンたちがブレヒトに提供した情報を丹念に追いながら、個々の作品や演出方法を例にとってブレヒトとメイエルホリドの新しさと面白さを示してくれる本書は、二〇世紀を代表する二人の演劇人の活動を、歴史的事実から読み解く格好の入門書ともなってくれるだろう。冒頭でも述べたように、メイエルホリドとブレヒトの接続を的確に捉えた本書は、現在でも各国の演劇研究で参照され続けている。その意味では時代を超えて読まれる価値が本書にはあり、基礎文献としての意義を十分に有している。

 

 本書の構成は、第一章でブレヒトのメイエルホリド演劇との出会いに触れ、第二章と第三章でメイエルホリドの演劇について、第四章でそのブレヒトなりの受容を語り、最後の第五章で、メイエルホリドの先駆性を改めて主張しながら、両者の時代的な革新性を指摘するに至る。これに加え、本書では、この間のいきさつを踏まえて、イートンの記述への補足・展開として編訳者の谷川と伊藤に、演劇批評家の鴻英良氏を加えた三つの論考を添えた。

 それぞれ、谷川道子「現代演劇へのパラダイム・チェンジ――メイエルホリドとブレヒトベンヤミンの位相」は、一九二六年に上演されたメイエルホリドの『査察官』を基軸に、二人の演劇人にベンヤミンを介在させ、ブレヒトベンヤミンの相関関係を、時代の変遷を押さえつつ解説している。伊藤愉「現実を解剖せよ――討論劇『子どもが欲しい』再考」は、ブレヒトと最も親しかった作家セルゲイ・トレチヤコフの戯曲『子どもが欲しい』を、メイエルホリドの上演計画とともに紹介している。鴻英良「叙事詩と革命、もしくは反乱――メイエルホリドとブレヒト」は、革命後、ソヴィエト最初の戯曲と言われるマヤコフスキー『ミステリヤ・ブッフ』を中心に、叙事詩における「革命を記述する」機能を読み解き、イートンとはまた異なる視点からメイエルホリドとブレヒトの連関を論じている。なお、鴻氏には、訳文に関しても細かいご指摘をいただいた。この場を借りて御礼申し上げる。

 いずれの論考も、一九八五年の出版から現在にいたるまでに明らかになった事実などを補足情報として取り入れつつ、読者にとってイートンの本文を読む上で補助線となることを意識して(しかし、それぞれの論者の立場を保ちつつ)記した。時代背景の事実、情報もそれぞれの論者が記述しているため、イートンが扱う時代の厚みと複雑さを少しでも味わっていただければ幸いである。

 二〇世紀初頭の激動の時代を生きた二人の演劇人は、ともに演劇と社会との関係、演劇が社会に与える影響、あるいはある時代において演劇を行うことの意味を問い続けた。本書には、しばしば「民衆」あるいは「大衆」と訳しうる用語(people / public / masses)が登場する。しかし、これらの用語が意味するところは必ずしも明確ではない。それは、もちろんイートンの瑕疵ではない。メイエルホリドとブレヒトの時代、「大衆」、「民衆」そして「観客」という言葉は、様々な意味を帯びながら多様に用いられた。その意味が揺れ動くなかで演劇を行うことこそが、演劇と社会の関係を問うことでもあったと言えるだろう。そこに答えは当然ない。しかし問わずにはいられない状況に彼らは生きていた。私たち一人一人がいま現在も「大衆」、「民衆」であるならば、その存在自体を問うた演劇人たちの活動を私たちが再度読み直すことは、同じ問いを今の私たちもまた投げかけられるということでもある。それゆえ、本書が、単なる時代考証の研究成果としてだけではなく、確かなアクテュアリティを持って、読者の方々に読まれることを願ってやまない。

 

 なお、訳出に際しては、イートンが引用しているロシア語、ドイツ語の原文に当たれるものは、極力原文を参照し、イートンの文意が損なわれない範囲で、適宜原文の文脈をなるべく拾いあげるようにした。また情報の単純な誤り、頁数の誤表記などに関しては、特に断りがない限り、訳出の際に訂正を施している。基本的に谷川がかつて訳してあった原稿を元に、改めて伊藤と谷川で全面的に見直しを行った。ドイツ、ロシアそれぞれの国、言語における細かい事実確認等は谷川、伊藤がそれぞれの専門を担当しつつ、何度もやり取りを重ねたが、不備、不足もあるかもしれない。その責任は両者にある。お気づきの際はご指摘、ご教示いただければ幸いである。

 最後に、本書出版計画のきっかけとなったメイエルホリド・シンポジウムを企画してくださった上田洋子さん、煩雑な編集作業を引き受けてくださった竹中龍太さん、装幀をしていただいた宗利淳一さん、そしてなにより、本書の意義をご理解いただき、出版の機会を与えてくださった玉川大学出版部の森貴志さんと相馬さやかさんに心よりの感謝を申し上げます。

 長い年月をかけてようやく本書の日本語訳を刊行できることとなったことは望外の喜びで、この先の若い世代、次の世代の読者の方々に末長く愛される本となりますよう。

 

 二〇一六年初夏 
                                      

                            谷川道子、伊藤愉

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    (図書新聞2017年3月25日号に掲載された高橋宏幸氏による書評)

岸田理生と「リオフェス」のこと 

 

テアトロ エッセイ 2016年11月号

 個有性と共有性のポリフォニー空間

岸田理生と「リオフェス」のこと 谷川道子

 

              

 何故か、これまで『テアトロ』誌にはご縁がなかった。一九三四年創刊という日本演劇界の最老舗の演劇月刊誌――この厳しい出版状況のなかでの奮闘振りに敬意と称賛を抱き続けてきたのだが、ドイツ演劇専門を自認してきたせいか、そういう巡り合わせだったのでしょう。今回ご縁を頂いたので、「リオフェス」について書かせていただきます。

 

劇作家岸田理生

リオとは岸田理生(1946-2003)――ご存じない方のために少しだけ紹介を。一九七四年に演劇実験室・天井桟敷に入団。寺山修司(1938-83)の弟子・共働者として劇作活動を開始。この出自は『身毒丸』や『レミング』などの寺山後期の作品は共作とされるほどの筆力を岸田に与えただけでなく、自らを他者のまなざしで異化し相対化する寺山ゆずりの複眼と骨太の姿勢をも遺し、寺山の天井桟敷とともに『奴婢訓』などのヨーロッパ公演にも参加。アングラ演劇運動の最盛期を共体験しつつ、七〇年代末から「女性も書きたい」と寺山の許可を得て独自の活動を開始。七八年には哥以劇場を創立し、『捨子物語』『夢の浮橋』などの戯曲を発表。八一年には岸田事務所を設立、八三年の寺山の死をはさんで演出家和田喜夫と組んで「岸田事務所+楽天団」を結成。八四年に初演された『糸地獄』は大成功作となって岸田戯曲賞を受賞。文字通りの代表作となり、再々演や九二年の海外演劇祭への招聘も。それまでの岸田理生の演劇活動の集大成であるとともに、岸田と日本演劇の八〇年代半ばでのある種の到達点/行き止まりと、さらには転換点の必然性も暗示していたのかも。

 

舞台は昭和一四年の糸屋、表は紡績工場、裏は娼家、あいだにイエの聖家族、そんなからくりの嘘で紡いだ日本の近代、そこに少女繭が海からやってきて、「ここはどこ?私は誰?どこから来てどこに行くの?」と問いながら絡み取られていく。糸引き糸切り糸地獄、女たちの死に顔の、いまなお風呼ぶ糸地獄、真正面から女であることと日本の近代を併せ問うた。―「女性を書きたい」、それを流麗な七五調の台詞やからくり芝居の歌舞伎的世界に託して見せるうまさ。他に岸田は『終の栖・仮の宿―川島芳子伝―』『私たちのイヴたち』『恋 三部作』など多作、八〇年代は秋元松代以来、如月小春、永井愛、渡辺えりこ、など女性劇作家が輩出してきた時代でもあったが、『糸地獄』はそれらを骨太に引き受ける八〇年代を代表する華麗な作品で、終着駅で転換点でもあっただろう。『糸地獄』の最後の打ち上げに参加された太田省吾さんが、「俺、こういうのはもういいかな」と呟かれたのを理生さんも聞いていた。理生さん自身が転機の出口を探っていたのだと思う。

私が岸田理生に出会ったのは、そういうさなかの一九九〇年でした。理生さんは九五年からは岸田理生カンパニーを主宰。

 

HMPから「リオフェス」まで…

ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーと『ハムレットマシーン』に出会って、一体これは何なのだと謎解きを始めたのが一九九〇年開始のHMP(ハムレットマシーン/ハイナー・ミュラー・プロジェクト)。演劇評論家の西堂行人とアメリカ演劇の内野儀とドdokuritusite イツ演劇の谷川道子を核に、演出家鈴木絢士と劇作家の岸田理生が加わり、理生さん宅に定期的に集まっては、皆でああでもない、こうでもある…日本ではまだ殆ど知られていなかったミュラー探索を翻訳・紹介・討議・上演などを並行させながら、日本・世界各地で展開。1995年のミュラーの死をはさんで、二〇〇二年には金沢で「かなざわ国際演劇祭2002」として、さらに二〇〇三年に東京・横浜で韓国や中国からの参加も含めた大がかりな演劇祭「ハイナー・ミュラー・ザ・ワールド」も開催。

そのHMPのメンバーとして演劇現場の実践部隊を引き受け、ミュラーを原作に『メデイアマシーン』の台本作成や『カルテット』の演出などを手掛けてきたのが、岸田理生さんでした。従来の戯曲概念をはるかに超えて上演不可能といわれたミュラー作品の読みや翻訳・上演活動、シンポジウム、観劇ツアー等々にも積極的に参加し、国内に自閉していったかの日本の80年代演劇からの突破口を、自ら探ろうとしていたのではなかったろうか。  

 

シアターの場におけるドラマの位置というものも根底から構造変化してきた現代演劇のパラダイム・チェンジと、真っ向から切り結ぼうとする潔さとともに、視野と問題意識・実践においても、国境を越えようとする岸田の意思も明らかだった。そしてHMPだけでなく、この頃からアジアの演劇人たちとの交流も積極的に行うようになる。1997年には国際交流基金の後援で、シンガポールの演出家オン・ケンセンと組み、シェイクスピアの『リア王』を脱構築。長女が父を殺し、原作にはない母が登場するテクスト『リアLEAR』を提供。舞台では、能、京劇、現代演劇、ダンス等々の多国籍パフォーマーによる多国籍言語が飛び交い、岸田の台本はそれぞれのパフォーマーの言語に翻訳され、能で語られる台詞にまで、日本語の字幕がついた。この舞台は東京から大阪、福岡、香港、パース、ベルリンへと1999年まで巡演。次いで2000年には、やはりオン・ケンセンとの「新しいアジアを探る」共同作業の第2弾として、『オセロ』を「創り手の物語」にさらに変換させた『デスデモーナ』も創られた。

 

没後の「リオフェス」

だが理生さんは二〇〇一年暮れに病に倒れ、〇三年の無念の逝去後に、宗方駿を代表に縁の人たちで「理生さんを偲ぶ会」が結成され、『岸田理生戯曲集』全3巻の刊行(而立書房)と並行して、命日の六月二八日(通称「水妖忌」)をはさんで都内数か所でほぼ一カ月にわたって毎年二〇〇四年から二〇〇八年までは「岸田理生作品連続上演」――一九九〇年以前の岸田理生の舞台を殆ど知らない私には、天井桟敷や哥以劇場時代からの理生さん縁りの演劇人がこういう舞台を創ってきたのかという俯瞰的なレトロスペクテイブの体験もさせてもらったし、それが一段落したかのような二〇〇七年からはもっと自在に岸田理生と向かい合おうという思いから「岸田理生アヴァンギャルド・フェスティバル」(これが通称「リオフェス」)が開催され、二〇一六年で第一〇回を迎えた。

通算一三年、すべての舞台を観られたわけではないが、毎年いくつか気になるものはなるべく観るようにしてきた。たとえば近畿大学学生だった笠井友仁が結成したhmpは大文字のHMPの演劇祭にも参加してきたが、〇七年の第1回リオフェスでは、『糸地獄』をもとにした『Rio』。そして二〇一〇年に岸田理生作『リア』を原作にリオフェス第四回の参加作品として創られたのが不思議な題の『Politics!Politics!Politics and Political Animals!』だった。拙著『演劇の未来形』(東京外語大出版会2014年)でも言及しているので参照されたい。この第4回リオフェスでは、hmpだけでなく、岸田理生の親友でもあった韓国の演出家キム・アラもこの『リア』をとりあげて、大胆に再構成。韓国と日本のスタッフ・キャストの合同により、座・高円寺のロビーから客席までを駆使して、スケールの大きな、まったく新しい『リア』を創り上げてみせた。アジアにおける深層の父権制母権制の対峙と絡み合いへの問題提起が底流にあったと言えるだろう。hmpとは対照的で新旧世代の大小の二つの『リア』の競演もこの演劇祭ならではの醍醐味だった。あるいは二〇一三年の第七回リオフェスでは、ダンサーで振付家の芝崎正道は、岸田理生がHMPでミュラーの『ハムレットマシーン』に触発されて上梓した『メデイアマシーン』をダンスシアター・プロジェクトとして上演、二〇一五年には岸田が演出したラクロの『危険な関係』にもとづくミュラーの男女の二人芝居『カルテット』を、柴崎正道自身の一人芝居としてしゃれたカフェサロン・シアターに仕立てて見せた。こういうのもアリかと感心。まだまだ展開は可能だろう。 

 

第10回リオフェスから三作品

さて、今年二〇一六年の第10回リオフェスからは、あえて一〇周年記念の新挑戦の三作を挙げておきたい。

宗方駿主宰のプロジェクト・ムーの『アンポはつづくよ どこまでも』は、岸田理生が病に倒れる直前に遺した、二〇〇二年に公演予定の岸田理生カンパニー・国境を越える演劇シリーズvol.13『安保・花咲けるオカマたち』という短い企画書をきっかけに創られたという。「旅路の果て」という養老院の特別病棟で、死期の迫った四人のゲイの老人たちが六〇年安保の思い出を介護にやってきたタイ人の美青年に語る物語になるはずだったらしいが、その構想に岸田のさまざまな作品の断片をも織り込みつつ、作家の福田光一が書き大橋宏が演出した岸田理生原案の「幻の新作」。安保法案と改憲の「パンドラの函」問題がもろにリアルになってきている今の状況を、理生さんは予見していたか? たしかに理生さんは政治と男たちを描くときは、喜劇的でかつ容赦なかったが…

次は、岸田理生カンパニーのメンバーを中心に結成されたユニットRによる『眠らない男』。岸田が天井桟敷時代に七六年に単独で書いた処女作『眠る男』に七九年の『凧』をクロスさせて、諏訪部仁のうまい構成・演出でさらにすっきり進化した『眠らない男』として蘇る。今、世界と私は目覚めているのか、眠っているのか? 第一景から、母が少年に「そんなに眠らないと砂男が来るよ」という台詞で、ドイツのロマン派の詩人ホフマンの『砂男』のメルヘン世界に引き込まれる。不眠訓練を操る女帝と医師と愚者の裏世界をもつ二重構造で、意識と無意識の境い目での不眠訓練というブラックメルヘンが、白庄司孝の絶妙なサックスとパーカッションと照明で駒場アゴラ劇場に充満していく。そうか、岸田理生の劇作の原点にはホフマンのメルヘン世界があったかと、何故か嬉しくなった。

最後が、千賀ゆう子の構成・演出・主演による『ラブレター~作品と日記による~』。千賀によると、一昨年に偲ぶ会の宗方駿氏から「リオフェスのために」と渡されたのが一冊のノート、一九九七年十月一四日から二六日までの日記風の手記。これを中心に作品を創るのは荷が勝ちすぎると手元に置いて折に触れて読むうちに、これは個人的なものを超えた〈演劇へのラブレター〉だと思い当たった。『リアLEAR』を演出したオン・ケンセンとの関わりと岸田理生の演劇への関わりが重なって、若い俳優たち三人が紡ぐ『リア』からの断片を横軸に、主軸のケンセンへの語りかけのような旅日記を千賀ゆう子が語っていく。 

 

ことに私の心に突き刺さってきたのが、「Keng Sen…いつか話したことがあったわね。私の旅は一九九〇年にはじまりました。ドイツと韓国、間をおかずに二つの国を旅をし、私はKoreaを選んだ。ふと思いました。あの時,ドイツを、ヨーロッパを選んでいたら、あなたとの出会いはあったのかしら?なかったのかしら? わかりません。唯、わかっているのは、私にとってはKoreaを選んだのは幸福だった。距離の近さではありません。日本にのみ向いていた視野が、外から、そう、アジアから日本を見る視野に移行したことがよかったのだと思います。多分、そう多分、私はKoreaを選んだことによって、あなたと出会うことができたのでしょう、そうして『リア』を共有することができたような気がします」――そう、そういうことだったのだろうなと納得する。岸田理生のテクストの中でミュラー菌は生き続けていたし、シンガポールのケンセンの演出を通してそれが世界へと拓いていった。舞台の合間には、入間川正美のチェロの生演奏が切なく響き渡る。緑と青空の広がる大きなバルコニーを持つ客席二〇ほどの六本木の小さなギャラリーはまさに、岸田理生と千賀ゆう子の演劇的な生命の息吹のためにあるかのよう。リオフェス一〇周年の贅沢ないい締めくくりだっただろう。印象的な舞台でした。

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「ラブレター」千賀ゆう子企画公演(第10回岸田理生アバンギャルドフェスティバル参加)
2016年7月24日~26日  於/ストライプハウスギャラリー
出演(左から)/清水周介 斉藤美鈴 佐藤辰哉 千賀ゆう子
写真/宮内勝

 

「リオフェス」の位相

こういう一人の作家へのトリビュート演劇祭が一〇年余も続くというのは、類例がないのではないでしょうか。HMPもミュラーを核に一〇余年続いたが、前半は探り、後半は国際演劇祭の準備に明け暮れた。私個人はその理念は、「ポストドラマ演劇」や「日本におけるドイツ年」へと、またF/T(フェスティバル・トウキョウ)やKEX(京都エクスペリメント)という実験演劇祭での試みへと拓いていったと思っているが、運動論的な実践としては、「リオフェス」にゆるやかに引き継がれていたのではないか、と。

それを可能にしたのが、何より「戯曲集」という形でテクストが公刊共有されたこと。

そして岸田理生を偲ぶというより、思いを寄せる演劇人がたしかな形で存在していること。

おそらく岸田理生の軌跡が、七〇年代の寺山/天井桟敷/アングラ演劇、秋元松代を先駆としつつ、如月小春、永井愛、一堂令、渡辺えり等々の八〇年代の女性劇作家としての模索と自立、九〇年代からのHMPや韓国・アジアとの国境を越える共同作業と、戦後日本の現代演劇の展開を果敢にわが身に引き受けた演劇人のそれだったからだ。

 

そのいずれかの部分に共振・連動して、それぞれが自分たちのリオ・ワールドを創り上げていく。そうきたかと、こちらは納得したり、怪訝に思ったり…このエッセイのタイトルを、個有性と共有性のポリフォニー空間と題した所以でもある。

岸田理生についての博士論文を大阪大学で岡田蕗子が執筆中だときくし、あるいは『テアトロ』先月の九月号の特集「我が心の友への手紙」で、演劇実験室:紅王国主宰者の野中友博が、最初の連続上演で『火學お七』を演出し(観ました!)、いつか『捨子物語』を上演することを理生さんに約束しているのだ。他のメンバーもそれぞれすでに次回は何をどう取り上げようかと練り探っていることでしょう。「リオフェス」自体はすでに助成金を打ち切られて、皆、自前でやっていると聞きますが、こういう独自性と持続性と発展性のある演劇祭こそ、助成され続けてしかるべきではないでしょうか。この原稿も、それへのエールのつもりなのですが…・。

 

 

追記:岡田蕗子さんがついについ先日、大阪大学で岸田理生についての博士論文を提出されたという嬉しい報告を聞きました。今年の「リオフェス 2017(第11回岸田理生アヴァンギャルドフェステイバル)」も、東京は6月22日から7月9日まで、開催されるという。今年は何と七月末には、「リオフェス IN KYOTO」にまで延長されるとか。ネット検索してください。今年のこの「リオフェス」については、書き手を次世代の岡田蕗子さんにバトンタッチして、「テアトロ」誌に劇評が掲載されるはずです。「持続する志」にエールを!

久しぶりにこのブログを再開します!

 

 久しぶりにこのブログを再開します! 

2016年1月の賀状を最後に中断していましたが、何度か書きかけながら、たとえば去年の「3・11」の日には障碍者劇団「態変」の公演『ルンタ(風の馬)――いい風を吹け』を座・高円寺に観に行って、その感想やらをいろいろに思いめぐらせて書き連ねていたのですが、「7・4」には「七月四日に生まれて」なのでちょうど七〇歳の誕生日、戦後七〇年、戦争を知らない子供たちの第一期生として、戦後憲法第九条のこととか・・・その他、劇評などもろもろ・・・思いが余りすぎると着地しかねて、依頼という義務なしのブログは、ついつい、ま、いいかとなるものですね。いろんな友人や皆さんのブログやフェイスブックを目にするにつけ、そんな機敏さは、もう今の私にはないなあとあきらめていたのですが、せっかく始めたブログ、年に何度かの備忘録か消息通知のつもりでいいので、私なりのペースで、再開させていただこうかと思いなおしました。ブログが更新されないと、また病気かな、もうあの世かしらと問われたりもしましたので・・・ま、生きている証拠に。

 

去年一年のことを、残った記録でまずはざっと辿ります----

まずは去年の夏に書いて、秋の演劇誌「テアトロ」十一月号に掲載された文章を転載させてもらいます。「リオフェスのこと」。

今年の「リオ・フェス」がまたそろそろ始まりますので、そのつなぎの前宣伝にもなります。少し長いですが、あえてこのまま載せさせて貰います。「テアトロ」誌では写真付きで掲載されたのですが、ここではそこまでできないかな・・・? 追記の文章で、今年につなぎます。