谷川道子ブログ

東大大学院修了(ドイツ演劇)。東京外国語大学教授。現在、東京外国語大学名誉教授。

Frohes und Friedliches Neues Jahr 2016 !!!

Frohes und riedliches Neues Jahr 2016 !!!

 

 

本当に、あっという間に1年が過ぎて、2016年を迎えてしまいました。

加齢とともに時の歩みは加速度的に速くなるのでしょう。

それに反比例して対応はゆっくりとなり、特に手術後は賀状を書く集中力も弱まって一斉メールの賀状にしたのですが、年末までにそれもかなわず、1月の間にブログの賀状をというのも間に合わず、せめて立春前にブログでの新年のご挨拶をと!

 

昨年は頼もしい同行者の支えを得て、エイヤっと思い立って、病後初めてで6年ぶりのベルリン演劇旅を敢行。うるわしのドイツの5月。主会場に歩いていけるホテルに泊まりながら、道に迷ったり、疲れたり、ドイツ語が中々聞き取れなかったり・・・心身能力の衰えと闘いつつ、無事に観劇して帰国。

それでもせっかくのベルリン演劇祭。できるだけその全体像が浮かび上がるような、若い世代の頼もしい力を借りてのチーム報告を、と頑張ったのが、昨年暮れにアップした二つのブログでの報告でした。

ベルリン演劇祭は、ベルリンの壁を演劇で乗り越えようと1964年に始まって今年が52回目。毎年ドイツ語圏演劇のベスト10作が選ばれてベルリンで招聘上演される人気の演劇祭。今年も難民問題など、焦眉の社会と演劇の問題が凝縮されて映しだされて迫力十分。 

ドイツ演劇研究者として、AICT賞受賞へのお返しという気持ちでしたし、東京外語大の図書館講演会でもこの報告を交えてお話し、今の時代への私なりの切り込みをお話させていただきました――リタイアから5年目の渾身の中締め?という感じだったでしょうか。感謝です。

 

日本のこともしっかり見ておかなくてはと、実は、ベルリンから帰国後の6月、沖縄戦終結の23日を挟んで沖縄に旅行。沖縄第1中学校校長だった方が生徒たちと戦死された弔いを中心に、静岡沖縄戦遺族会の追悼の旅。もちろん沖縄は初めてではなく、何より2005年秋に日本独文学会秋の研究集会が、アメリカ軍ヘリコプターが墜落した直後の沖縄国際大学で開催され、そのときの学会員は殆どみな、歴戦の地もめぐったことでしょう。

本土で唯一米軍が攻め込んできて決戦の地となり、ヒロシマに匹敵する20万人が犠牲となった。その後も米軍占領下におかれ、1972年の返還後も在日米軍基地の75%がいまなお沖縄にある。日米地位協定にしばられて、米兵に女子学生が強姦殺害されても、大学に米軍機が落ちても、手も足も出せない治外法権。オキナワの怒りが、今回も旅のいたるところで実感されました。バスの運転手さん、ガイドさん、お店の客にエイサーの踊り手、皆さん、しっかりご自分の思いを語られる。最後は皆でのカチャーシー。オキナワは沖縄でありたいのだと。辺野古に続くサンゴ礁の海も美しかった。こんな美しい地球を壊すのかと。

昨年のお正月のメール賀状では、オール沖縄の勝利に社会変化の道筋が見えたような気がしたのですが、今年始めの宜野湾市長選では敗けました。基地がどこであれ普天間からは出て行って欲しいという宜野湾に住む皆さんの切実な思い、そして巨額なお金とディズニ―ランド化への約束。切実な思いが新しく歴史を開こうとする動きに結びつくには、どうすればよいのでしょうか。民主主義とは何なのでしょう。

 

安保法案審議の国会デモにも行きました。8・30の10万人集会はさすがに狛江9条の会で参加、後はひとりで時間の空いた時に、国会議事堂前で降りてお巡りさんに若い人たちSealds の集会場所を聞いて、若い衆のヒップホップやラップ調の乗りに加わってコールしたり・・・・座視してはいけないだろうと出かけて、自分たちの思いと言葉を自由に表現する若い力のエネルギーと可能性に励まされました。

 

今年のドイツ語の冒頭挨拶には、新しい年が楽しく平和でありますようにという思いを込めました。皆さまのご健康とお幸せを祈りあげます。

 

外語大図書館講演会「演劇という文化」

去る12月2日に、外語大図書館講演会として、私の講演「演劇という文化」が開催されました。前コラムのベルリン演劇祭のTT2015報告にも触れつつ、ドイツ演劇とその現在形が見えるような形でお話しましたので御笑覧いただきたく、講演原稿をアップさせていただきます。

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2015年度 東京外語大図書館講演会  

2015122 16;3018;00    

@東京外語大プロメテウスホール

谷川道子: 「演劇という文化」

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「ベルリン演劇祭 =Theatertreffen2015報告」のこと

久し振りのブログです。この間、見知らぬ方から、このブログのファンだったのに、ずっと途切れたままなのでどうしたのかというあり難い問い合わせを頂きました。再開致します。ご覧いただければ幸せです。

 

  実はこの間、まずは、5月1-18日開催の“Theatertreffen 2015”=通称ベルリン演劇祭(=TT2015)に、出かけてきました。思えば大病後、もうドイツ観劇旅行は無理かと思っていましたが、何とか立ち直り、若い人にベルリンまで同行して頂けることになり、ちょうどその頃、同じ関心をもつ皆さんがべルリンに集結しサポートして貰えそうなので、最後のチャンスかもしれないと、重い足腰をあげました。そして3週間ほどベルリン滞在して、皆に支えられながら全10作を観てきました。

  ドイツにはさまざまな演劇祭がありますが、中でも「ベルリン演劇祭」は、前年度のドイツ語圏の劇場のベスト10の舞台が審査委員により選ばれて、5月にベルリンに招聘されて上演される、映画でいうとオスカー賞のような演劇祭。いわば各年度のドイツ演劇のエッセンスがまとめて観られるのですから、毎年でも行きたいところ。しかし年度初めの時期では難しく、リタイアしたらと思っていたのですが・・・。  

 

6年ぶりのベルリン演劇祭TT2015ー、それならAICT機関誌『シアターアーツ』WEB版に報告を載せて欲しいという依頼を受けて、せっかくなら、ベルリンに集結する若い世代とチーム報告の形で、ドイツ演劇の現在の全体像が浮かび上がるといいなと構想・夢想。

誰が何をどう書いてもらえるのかも手繰りの中で、何とか、アラサーの孫世代とでもいうべき若い6名の皆さんに書いてもらえることになり、鋭意、原稿執筆に専念。8月には原稿を完成させて、編集委員会のチェックを受けて、訂正段階に入り、途中で編集委員会のプロバイダーの故障も入って、結局、アップまで半年余もかかりましたが、皆さんの頑張りと熱意と、そして何より、「シアターアーツ」誌の編集委員会の坂口勝彦氏と関智子さんのご尽力のおかげで、ドイツ演劇の現在形が浮かび上がるようなチーム報告ができたのではないかと、嬉しく思います。

 

サイトは、http://theatrearts.aict-iatc.jp/ こちらがトップページです。見ていただくと、すぐにどれかわかると思いますので、それをクリックして本文を見てください。

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二十歳の若い力の『三文オペラ』!

気がつくと二月は逃げていて、今日から三月。花屋には桃と菜の花が並び、桜便りも、河津桜を皮切りに、聞こえ始めました。嬉しい春。三月は卒業の季節でもあります。あやかって桐朋の卒業公演のお話を――

 桐朋学園芸術短期大学演劇専攻の卒業公演で『三文オペラ』を拙訳で上演したいという申し出を頂きました。何せ『三文オペラ』には、千田是也(1904-1994)と岩淵達治(1927-2013)という日本のブレヒト受容の両御大の先訳があって、お二人はともに我が恩師で、何より桐朋学園芸術短期大学演劇専攻の創設者と後継者。いいのかなという戸惑いはありましたが。

 

桐朋学園芸術短期大学演劇専攻の卒業公演

周知のようにこの桐朋短大演劇専攻は、戦後の演劇界に多くの逸材を輩出したことで知られるあの俳優座養成所(1949-67)を前身とし、千田是也を中心に安部公房田中千禾夫という日本演劇界の巨星たちにより専門俳優を大学で養成する目的をもった日本で初めての教育機関として1966年に創設されたもの。岩淵先生も関わっておられたので、卒業公演は何度か観ていたが、ペーター・ゲスナー氏(1962~)が2004年から専任となり、演劇専攻を指導する立場になって、今回は拙訳『三文オペラ』で第48期の卒業公演をしたいというオファー。演出のゲスナー先生としては、若い学生たちがいま上演するには最新訳でと言われる。両先生ごめんなさいという心境ながら、申し出はやはり嬉しい。何しろヴァイルの音楽付きの若くて元気な二十歳の『三文オペラ』なのだ。どのような舞台になるのか、わくわくドキドキと、楽しみになる。

 

それならばと、桐朋の稽古場や内輪、舞台裏も初めて覗かせてもらった。短大芸術科の演劇専攻は80名ほどで、「ストレートプレイコース」と「ミュージカルコース」に分かれていて、48期の卒業公演はそれぞれ『ひめゆりの塔』とこの『三文オペラ』。つまり40名弱の20歳の2年生が、しかも男性は4名だけ、1年生の助けも借りつつ、なるべく主役級をたくさん経験させたいという親心で2チームを組んで、それを学内の小劇場稽古場に本番の俳優座劇場と同じ舞台を組んで、1か月余の短期集中の稽古――、日程や内輪の事情を聞くと、しかもこの直後には、3-4年生の専攻科音楽専攻の『フィガロの結婚』演出と本番が3月4日に控えているという。魔の年度末…ここまで内情を書いてしまうと叱られそうだが、いまはどこの大学事情も大変なことは、私の現役時代も同様だったし、熱心な先生ほど燃え尽き症候群になりかねない…だから、楽しく面白がって、やってよかった、観てよかった、という舞台を学生さんたちと頑張って創らなければならない。ゲスナー先生の腕の見せ所でもある。

でも、音楽は稽古から音楽専攻の学生さんたちがプロはだしの演奏をしてくれるし、毎年のことだから、大道具や小道具、衣装なども仲間やスタッフ、卒業生や同僚たちとの信頼の連携プレーも得てなるほどと…わが外語大の外国語劇と違って、皆さん、舞台のプロをめざしての集団だ。やりがいはあろう。

 

 二十歳の『三文オペラ』 

そもそも『三文オペラ』は、18世紀にロンドンでヒットしたジョン・ゲイ原作の『乞食オペラ』にブレヒトが手を入れ改作、ヴァイルが作曲、「黄金の一九二〇年代」の時代精神にぴったりはまって、伝説的なメガヒットとなったミラクルな作品、乞食と娼婦と泥棒たちが繰り広げる猥雑な音楽劇だ。

初演後に絶賛の記事、そしてソングのメロディは、新メディアのラジオやレコードとともに巷にあふれ、一年余のロングランに、ドイツ中のみならず、モスクワ、パリ、東京、ニューヨーク等でも上演され、一九三一年のパープスト監督による映画化と、ブレヒトの名前が世界に一躍とどろく契機にもなった画期的な作品。当時のブレヒトたちも三十歳前後の怖いもの知らずの若者だったとはいえ、今回は二十歳の『三文オペラ』だ、どうなることか。

 

出会った最初は、ホントに二十歳の若者だった。風邪や失敗、忘れ物のハプニングにもゲスナー先生の檄と怒鳴り声。でも若いというのは成長の度合いも著しい。「二十歳の僕たちが稀代の大泥棒や乞食の友社社長や警視総監の大人のメッキースやピーチャムやブラウンをどう演じればいいんでしょ」と屈託なく聞かれて、外野としては「だって、そういう役そのものになれと言ったって、無理でしょ。泥棒チームは実は皆、女の子たちなのだし。どうする? どう演じてどう見せればいいのか、自分たちで考えてやってみて、その役になるんじゃなく、その役に見えるよう演じてみせるんでしょ」。そしてけっこう変わっていく。娼婦なんか目いっぱい網タイツやブラジャーおっぱいで気取ってみせて、メッキースは精一杯二十歳で男の色気を見せて…ダブルキャストは本番ではそれぞれ個性の違う自らのメッキースやポリーをちゃんと見せてくれる…。

 

客席三百の俳優座劇場はちょうどいい大きさで、右手前に五人のオール女性の生バンドが控えていて、木組みの数段の舞台は、歳の市の広場にも、乞食の友社にも、結婚式の馬小屋にも、娼婦の館にも、牢獄にも、自在に変化して、どたばたの猥雑さの舞台転換も、幕をうまく使いながら皆でスムーズ。さすがミュージカルコースの学生たちだけあって、歌も聞かせるのだ。

無理に四十歳代の大人に見せるのではなく、でも違和感なく、二十歳台らしいのびやかな溌剌さも伝わってくる。

 

若さだけではない。この作品のテーマも、きっちり浮かび上がってくる。

乞食や泥棒や娼婦など最下層の庶民たちの、成り上がろう、それでもちゃんと生き抜いていこうとするエネルギー。たとえば「第2幕のフィナーレ」は、「まずは食うものを寄こしな、お説教はその次、まずは食うこと」「人は何をして生きるのか」、「うぬぼれるのはやめよう! 人間は悪いことばかりして生きているのだから」―――ほぼ全員が、舞台の下から首や身体を突き出して、迫力ある歌と振付で観客を睨みつける。悪いのは我らだけではないぞ、あんたたちも同じだろうと。さてその中で、どう生きるのかと。

メッキースは絞首台で「銀行設立に比べれば、銀行強盗など、如何ほどの罪か」「男一匹殺すのと、男一人を飼い殺しにするのと、どちらがたちが悪いか」としたたかに社会批判の演説をする。ところがそこに届く女王からの恩赦。「最後のフィナーレ」では全員で、「現実の世界では、こうはいかない、ひどい末路だ、国王の使者などめったに来ない、踏みつけたり、踏みつけられたり、だからあまり不正を追及してはいけない」。それが現実か、それでいいのか――。若さの迫力が人間と現実を見る迫力となって、舞台と現実と、どっちが本当かと、虚実を問い、答をアイロニーたっぷりにひっくり返して見せる。

素直なまっすぐさが印象に残った。たしかに現実の世界は中々ハッピーエンドとはいかない。だからこそ、若者よ、グッド・ラック!

 

三文オペラ (光文社古典新訳文庫)

三文オペラ (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

「近くて近い国へ」―― 日韓演劇交流のこと

 

一月下旬に、「韓国現代戯曲リーディング」というのに出かけました。

 

日韓演劇交流センターが正式に発足したのは二〇〇二年で、それから一三年間、日韓双方の地で、隔年で、こういった日韓「現代戯曲リーディング」の試みを重ねてきたという。

上演パンフの最後に付された「日韓演劇交流年表 1972―2012」を繙くと、観たり、覗いたり、関わったりしたものもかなりあるなあと思うものの、とくにHMP(ハイナー・ミュラー・プロジェクト)で中心メンバーの一人だった岸田理生さんが韓国語も学んで意識的に日韓演劇交流の舞台を試みてきたこともあったが、私はドイツ演劇が専門ということが無意識にあったのか、これまできちんと受け止めてこなかったなあと改めて思ったり…。すでに三〇本の韓国戯曲を日本に紹介し、同じく三〇本の日本戯曲を韓国でも紹介し、リーディングとシンポジウム、セミナー、ワークショップと積み重ねられ、日韓の文化交流の架け橋となってきた。上演された邦訳戯曲は刊行されて、すでに七冊目とか。

 

東京では今年で七回目だという。現代の韓国演劇界をリードする三人の韓国人劇作家の作品がリーディングされたが、いずれも韓国の近現代史を真正面から扱っている。

跡継ぎ息子が欲しいばかりに次々に多くの女性と関わって、それぞれに心に傷を持った腹違いの娘たち四人と父の物語――キム・ユンミ作『五重奏』。

期せずして脱北した主人公木蘭が、韓国での生活に幻滅し、北へ帰る決心をする――キム・ウンソン作『木蘭姉さん』。2012年に数々の演劇賞を受賞している。

父子二世代にわたるドラマでかたられる小市民における韓国現代史――キム・ジョエブの『アリバイ年代記』。こちらも二〇一三年に数々の演劇賞を得て、二〇一四年にも再演。

 

すべて日本の演出家と俳優たちによって上演されたのですが、ここではまずは、谷川塾の常連である公家義徳演出の『アリバイ年代記――道化師の政治学概論』を中心に―――。

 この作品の特徴は、二〇一三年に作品賞や戯曲賞を得た時の作・演出のキム・ジョエブ自身と実の父と兄の人生の年代記のように、実名と事実に基づいてドキュメンタリー的に綴る叙事的な演劇であり、ジョエブが本人としても登場することでしょうか。父は植民地時代に大阪で生まれ育ち、終戦/解放とともに祖国に帰り、大邨中央高校で定年を迎えた。だが病床で、朴正煕と幼馴染だったが、いきさつで朝鮮戦争に従軍せずに母校に戻っていたこと…。六四年生まれの兄と七三年生まれのジョエブは、八〇年代の光州事件や韓国民主化運動などにも関わり、そういうそれぞれの〈アリバイ〉のような伝記が同時代の政治史と重ね合わせられつつ、語られていく。

 十数人の俳優が三〇余の役を演じるのだが、もろに隣国の現代史でありながら、記憶をまさぐりつつ、身に覚えのありそうななさそうな…我ら日本人は実際、身近なはずのそういう事態に恥ずかしいまでに疎いのだということをつきつけられる。

公家の演出は、中央にスクリーンを置いて、年代記的な事象を映像や年表や、写真や、文学的語りや引用等々で、そういう背景を補ってくれる。戒厳軍で鎮圧され多数の死傷者を出した光州事件や、金大中盧泰愚などの写真も、朴正煕の娘が現大統領である時に、よくここまでの舞台が創られて評価されたことに感心。映像や資料はすべて自分で作ったという公家はそういう仕掛けで事実にも語らせつつ、日本人観客との距離を媒介しつつ、淡々とした個々人や群像の語り(リーディング)で、個人史と時代史のクロスする現代を、さまざまな角度から問いかける。こういう風に小細工なしに言葉や事態を浮かび上がらせるリーディングという形式は、私は結構好きなのだが、それが押しつけがましくなく、問いかける風に機能して、観客を自問の内省に導いていく。

  

作者のキム・ジェヨブは、劇作家・演出家・俳優として活動しながら、演劇学科の大学院で博士号も取得、演劇の新しい可能性を探り続け、「演劇ではなくても良い演劇」を標榜するようになる。ドラマという枠を脱してドキュメンタリーと叙事的要素を結合させて、同時代の枢要な問題を扱う演劇――主要テーマはいま、歴史から経済へと進みつつあるという。「ポストドラマ演劇」のベクトルで、新しいブレヒトが生まれつつあるように感じた。彼だけではないようですが。

 

最後のイベントとして開かれたのが、「女性が演劇を変える」という興味深そうなタイトルのシンポジウム。実はこれは、日韓演劇交流センター会長の大笹吉雄さんから提案されたテーマで、男女の区分がはたして演劇の場に必要かという疑念も出されたが、女性が圧倒的に少なかった演劇界に、劇作家や演出家が登場してくる状況や過程、テーマや手法など、双方になるほどと重なるところや、微妙に異なるところもあって、これも興味深かった。パネリストは、韓国からは、演劇評論家キム・ミョンハと劇作家キム・ユンヒ、日本からは演出家小林七緒、劇作家+演出家の永井愛、司会が大笹さんという布陣。韓国では六〇年代に生まれ、民主化抗争の八〇年代に大学生、九〇年代に三十歳代という〈三八六世代〉というのがあって、日本の団塊世代全共闘世代より一世代若く、彼らが、女性演劇人の台頭も含めて、現在の活気ある韓国演劇界を担っているようです。

 

かつて岸田理生さんと初めて韓国はソウルを訪ねて旅したとき、なぜか我が身の置き場に戸惑ったもの。ヨーロッパでは私は迷うことなく外国人、アジア人だった。フィリピン人かベトナム人かと、よく間違えられたものだ。しかしソウルでは見た目や服装・仕草は殆ど変らないが、どこか根本的に違うのです。話しかけられても少々かじった程度では言葉も通じず、何をどこまで共有しているのかが茫漠としてつかめない。帰国して始めたハングルも、長続きせず…。そのことに疾しさのようなものまで感じていたのだが、ともあれこういう形の文化交流の積み重ねこそが相互理解の基盤なのでしょう。それはどこの「国」とでも同じでしょうが…。

 

Prosit Neujahr 2015!

 あけまして、新年、おめでとうございます。本ブログ、今年もよろしくお願い致します。最近は短縮して「あけおめ、ことよろ」と言うのだそうですが・・・・松の内も過ぎての新年のご挨拶で恐縮ですが、せめて節分までにと・・・・

 

 年末年始を掛川の実家で過ごさざるを得なくなって以来、いつも帰京後の遅ればせの一斉メール賀状になってしまい、すでにもう何年になるか。思えば昔は、せっせと手作りで木版画を彫って、多色刷りにしたり、一筆添えたりと、思いをこらして賀状を出したものですが、それは何年続いたでしょうか。手書きから印刷へ、そしてメールへ・・・

 おせちも実は最近はほとんど通販と買い物の手抜き、それに何とかお屠蘇とお雑煮で年賀のおもてなしをしていますが、昔はいろいろ予定を立てて、時間をかけて、ゆっくり家族でつくったものです。市場で買った一匹のはまちや鯖も、三枚におろして、ブリ大根や昆布巻き、お刺身にしたり、しめサバを酢のものにしたり・・・・蕪は蓮の花のような酢のものに、錦糸卵も手作りで・・・・そんな楽しさもはるか昔のことになりました。

 桜島の初日の出を見て、お書き初めもして、「お正月」の歌を聞きながら、昔は羽根つきや凧揚げも両親と一緒にやっていたなあと思いだしたり・・・・

 夕暮れて暗くなったからお帰りよと言われても、紙芝居やチンドン屋が好きで、ついていって迷子になった、あのザ・昭和の「三丁目の夕日の世界」の懐かしさ・・・・

  

 同じ思いの皆さんも、多いのではないかとも思います。

 何時頃が転機だったのだろう。そう、やはり1964年の東京オリンピックの頃でしょうか。新幹線が走り始めて、速さと経済効率の感覚がまずは狂いました。よろずがスクラップ・アンド・ビルドのごとく様変わりして、「戦後は終わった」と「世界の中の日本」と高度成長を合言葉に、寝台特急はやぶさもいまはなく、よろずが速く簡便であることが望まれました。次が1970年の大阪万博か―あの時に太陽の塔に原子(原発)の火がともりました。

 60年安保と70年安保の間が、1965-74年が、東京でのわが大学生時代でした。それからは大学教師の社会人、気がつくと、世の中はまったく変わってしまっていました。明治維新の開国近代化からほぼ150年、戦後70年。たしかに皆、頑張りました。便利にもなりました。女性も大学で教職を得て、男女機会均等法、便利になった家電のおかげでの共働きに親の介護・・・悪いことばかりではありません。こういった変化に私とて共犯で、おかげ様の恩恵も感じています。二重、三重に大変にもなったことも・…

 

 でも、失ってしまったもの、切り捨てたもの、どこかで勘違いしてきたものもたくさんあるのではないかと思うこの頃です。

 何よりまず思い浮かぶのが、経済最優先論理や競争原理への疑問と、自由民権や民主主義とはそもそも何なのだろうという問いかけ。そう、近代は、個人主義と民主主義と資本主義を三本柱として成り立ってきました。一番ないがしろにされてきたのは、民主主義ではなかったでしょうか。

 

 ザ・昭和を代表するスターが相次いで亡くなられました。戦争を知る最後の世代で、日本映画の歴史をまさに体現してきた、ご存じ、高倉健さんと菅原文太さん。日本の男の不器用さどころか、恰好良さの体現者でもありました。

 ことに末期癌の痛みをおして沖縄知事選の応援演説に立った菅原文太さんの言葉はすごく格好良かった。政治の役割りは二つ、国民を飢えさせず安全な食べ物を食べさせること、そして絶対に戦争をしないこと。戦争をすることを前提に沖縄を考える政権と手を結んで辺野古を売り渡してはいけない。「仲井真さん、弾はまだ残ってるがよ」――かつての自らのヒット映画『仁義なき戦い』中の名文句の引用だったが、この弾は任侠のテロではなく、人情の、人間と自然の共生の民意=民主主義だ。

 結びの言葉も格好よかった――沖縄の風土も、本土の風土も海も山も空気も風も、すべて国家のものではなく、そこに住んでいる人たちのもの。辺野古もしかり、勝手に他国に売り飛ばさないでほしい。人間として国が違えど、同じ思いは通じるはず、と。

 

 その誠意と真意がオール沖縄を成立させた。そして今、問われているのは、その思いを、弾を、政権が、国民が、どう受けて立つのか、という民主主義だろう。ヒロシマナガサキに次いで、オキナワ+フクシマを見殺し=贖罪山羊にしてはいけないのだ。

 勝つのは、決してテロではなく、民意・民主でなければいけない。フランスの新聞社を襲ったテロの悲慘と恐怖を目の当たりにした今、なお痛切にそう思う。

 

 まったく話は飛ぶのだが、昨秋、F/T(フェステイヴァル・トーキョー)で、さいたまゴールドシアターの清水邦夫作+蜷川幸雄演出の『鴉よ、おれたちは弾丸(たま)を込める』の最新版を観た。周知のように、2006年に結成された平均年齢75歳の高齢者劇団の、パリ客演までやってのけた、「代表作」だ。数十人の老婆が法廷を占拠して自ら裁判を行うという「アナ―キ―な闘争劇」――拙著『演劇の未来形』でも触れているが、私自身も高齢者となった今、戦後70年の共犯者である団塊世代がこめる弾は、まさに「弾はまだ残ってるがよ」の民意・民主であるはずだろう。演劇にも、弾はまだ残っている?!

 

演劇の未来形 (Pieria Books)

演劇の未来形 (Pieria Books)

 

 

「上質な知性がなくては、あんな民衆劇の喜劇は創れない!?」 

  

『喜劇だらけ~ネストロイの世界』

あの国技館のある両国の反対側のシアターXで、うずめ劇場第27回公演という『喜劇だらけ~オーストリア・コメディ、ネストロイの世界~』を観た。いろんなことを考えさせられたので、その関連でちょっとだけ。

 ヨーハン・ネポームク・ネストロイ(1801-62)をご存じだろうか。日本では「ウイーン民衆劇の作家」というくらいは知られているかもしれないが、日本での上演は、1968年にブルク(宮廷)劇場が『楽しきかな、憂さ晴らし』をもって東京や大阪で客演した以外は、1977年に東京と札幌で『お守り(上演題名は「赤毛もの」)』が岩淵達治と津川良太共訳でそれぞれによって演出・上演されただけだった。いずれも私は未見だが、今回のうずめ劇場はそれ以来、というわけだ。

 だが、オーストリア、ウイーンでは大人気の作家で、本来は場末の民衆劇場のスターだったが、いまや宮廷付属劇場でも人気演目。私もウイーンに住んでいたころに、ブルク劇場に何度か観に行った。人気ネストロイ役者の出るときは切符がとれないほど…観客は舞台と一体になって笑い転げる…でも情けないことに一緒に笑えないどころか、何を言ってるかも殆どわからないのだ。たしかにウイーン方言はただでさえ、電車やバスの中の案内もメロディだけで言葉はわからない、東京人にとっての京都弁? しかもネストロイ語はそれに地口、隠語、冗語、同音意義語、等々の言葉遊びが多重に加わって、身体言語としてすごいスピードで襲いかかってくる。加えて観客が乗りに乗ってくるのだから、外国人観客がついていくのは大変。2001年には生誕二百年が多様に賑々しく祝われたらしい。

 

うずめ劇場とウイーン民衆劇研究会のジョイント

 それが今回のうずめ劇場のネストロイはしごくわかりやすくて、楽しくあっけらかんと(?)笑える。演目はネストロイ最晩年(1862年)の一幕物二作品、『昔の関係 あるいは知られたくない過去』+『酋長“夜風” あるいは世にもおぞましき宴 インディアン風仮装コメディー』。初演は、皇帝フランツ・ヨーゼフの天覧公演であったとか。

分かりやすさの要因のひとつは、まずは1978年の創設以来ずっと月1回で続けているというウイーン民衆劇研究会の存在。40年近い積み重ねと力量と成果は、すでに『ネストロイ喜劇集』や『オペラ・パロデイの世界』などで刊行されているが、今度の『酋長“夜風”(アーベントヴィント)』はこの公演のために新たに訳され、しかも舞台化にあたっては、台本の潤色と脚色を劇団うずめ劇場の手にゆだね、翻訳台本の全文は上演パンフ冊子に治められて観客に無料配布された。舞台での台本は、固有名詞をはじめ、掛詞、歌や掛け合い、駄洒落、リズム、秘密保護法や原発などの時事ネタに絡ませたり、劇団の地元の博多弁が入ったり…俳優たちが稽古の中で言葉を自分たちのものにしていったのだろうと思わせる、そこまでやるかいといった思い切りのいいものにしあがっていて、上演パンフに、〈劇場・編集より〉として自由にゆだねて貰えたことへの謝辞があった。「翻訳劇を扱う劇団にとって、これほど嬉しく、心強いことはない」と。なるほどという見事なジョイント振りだ。

そのうずめ劇場とは、東西ドイツが再統一して東ドイツから自由に出られるようになったペーター・ゲスナーが、1993年に北九州にやってきて旗揚げした劇団。ギリシア演劇の女神タリアの日本版「雨のうずめの命」にちなんだ命名とか。現在は拠点を東京に移しているが、三島由紀夫に始まってベケット、安倍公房、ビューヒナー、ホフマン、岸田国士、クライストにタボリ、ギリシア悲劇と、演目も、海外を含めた上演の場所や形態も、自在にトランスボーダーだ。軽々ととはいかない壁もたくさんあったろうが、もうすぐ20周年の頑張りは称賛もの。その中で培った「翻訳劇」の壁の越え方の知恵だろうか。

 

本歌取り『酋長“夜風”(アーベントヴィント)』の位相

さらに面白いのがこの作品そのものの位相である。

 ネストロイは、ウイーン大学法学部に席を置きながら、音楽や芝居への情熱おさえがたく、22歳でオペラ歌手としてモーツアルトの『魔笛』のザラストロ役でデビュー。その後、俳優から演出家、劇作家を兼ねる演劇人となり、劇作は83作を数え、クプレと呼ばれる時事小唄入りの民衆劇が本領。そして多くの場合、先行作品がある。当時流行っていたものを換骨奪胎し、そのパロディ化が当たって原作の評判にもなるという…いわゆる「本歌取り」だが、それは著作権のなかった当時は普通に行われていたことらしく、ウイーン民衆劇研究会の成果のひとつである『オペラ・パロデイの世界』は、図書新聞で書評させて貰って、そういった事情をなるほどとたっぷり教えられて、じっくり堪能した名著だ。

 この『酋長“夜風”』もそう。そもそもの種本は1857年にパリで初演されたオッフェンバックの『夕風』。周知のようにオペラならぬ軽妙な風刺劇オペレッタの創始者で、次作『地獄のオルフェ(天国と地獄)』で一躍有名になったが、ウイーンでの各上演初日にはオッフェンバック自身が指揮台に立って、大喝采。ネストロイも原作を改訂し出演したようだ。『夕風』は、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』を基に、ときおり食人種がやってくる無人島に漂着した船乗りの現地人女性との恋物語――当時の植民地主義的な冒険と恋のロマン主義の風潮へのからかいか。ネストロイの『アーベントヴィント(夜風)』は、これをもっと過激に全篇改訂し、音楽はオッフェンバックの楽譜を使っている。

 もっと過激に、とは、オーストラリアの辺境の「未開の」島に漂着した「文明人」をめぐって二つの族長の確執と抗争、供宴に食べるものがなくなって果たして食べたのは……ルソーのいう「高貴な未開人」の理念を微妙にねじりつつ、ネストロイは当時のクリミヤ戦争前の列強同士の首脳会談の外交にあてこすって、ウイーン方言と皮肉を駆使したご当地劇に作り替えた。検閲ぎりぎりの数々の工夫があるようだが、その風刺は当時の観客には不評だったようだ。今では「文明と未開」をめぐる風刺の茶番劇、という風情か。

 さらに、ノーベル賞作家イエリネクというもう一つの位相が、その上に乗っかる。1987年の『大統領アーベントヴィント』だ。自らを「ネストロイの遺産相続人」と称する彼女の風刺も過激だ。酋長アーベントヴィント(夜風)は、1981年まで国連事務総長を務めて1986年にオーストリア大統領に選出されたクルト・ヴァルトハイムに、暗示的/明示的に変換されているのだ。ヴァルトハイムがナチス国防軍の将校だった事実が選挙期間中にも暴露・喧伝されたのに、大統領に選出されてしまった。そのような大統領をいただくことは、ユダヤ人ひいては国民を犠牲とする食人主義(カニヴァリズム)というわけか。

 

上演パンフ冊子などのサービス精神

 オッフェンバックにネストロイにイエリネクの三階建て……そういったあれやこれやの薀蓄は、私の素養の範囲などはるかに超える。実は、この作品の翻訳台本が掲載された上演パンフ冊子には、ウイーン民衆劇研究会の会員諸氏による詳しく達者な論考もさまざまに併載されていて、わが薀蓄はほとんどこれに依るという次第。観劇後に、いったいこれはどういう芝居だったのかとこの冊子を繙くと、そんなこんなの世界も開けてくる、という仕掛けだ。ほとんど一冊の本のごとき内容が詰まって、観客に無料のおまけで供される。この本公演前には劇場で、研究会メンバーによるレクチャーやトーク、勉強会も波状的に開催されたと聞く。老若男女の満員の観客も、なんだか上質の感じのいい雰囲気だった。

 

 サービス精神はそれにとどまらない。二組のカップルが過去を知られまいとするたわいない笑劇『昔の関係』の後の休憩時には、ウイーン由来のワインやおつまみ、ホーメイ(トゥバ族の倍音による音楽)の実演まで供されて、続く『酋長“夜風”』の舞台にはたくさんの島民があふれて、唄い踊る。大盤振る舞いだ…。

 

下町の民衆文化の精神

帰路にちゃんこ鍋屋さんに寄って、そう、ここは下町、相撲も歌舞伎も民衆の娯楽だったのだと思い、ウイーン民衆劇場のある下町界隈の雰囲気を思いだしたものだ。シアターXも、そういう民衆劇場であろうと、貧しい日本の文化行政の中で頑張っている…。

ちゃんこ鍋をつつきながら、上質の知性と意地と思いやりがあって、こういう民衆劇の喜劇が創れるのかなと、連れの仲間と話したものだった。