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谷川道子ブログ

東大大学院修了(ドイツ演劇)。東京外国語大学教授。現在、東京外国語大学名誉教授。

何故か、野上弥生子のこと

何故か、野上弥生子のこと

 

 何故か―敢えてきっかけをいえば、とある人が大分に出張に行った際に、せっかく大分に来たのだからと野上弥生子の生家を訪ねて、そのお土産に彼女の生家の小手川酒造の焼酎「白寿」と何冊かの彼女ゆかりの本を買って贈ってくれたこと。くも膜下出血の手術以来、我が余命は長くないとよく口にするのを耳にして、あなたは周りがはた迷惑するほど白寿まで長生きしますよ、という嫌味か励ましかの思いやりでもあったのだろう。病もちでこの歳になると、老いと寿命はいろいろに考える。いつお迎えが来てもいいように―。

 

 もちろん彼女の本は、名著『秀吉と利休』はじめ読んではいたが、あらためて伝記を繙くと、たしかに老いつつある身としては、すごく励まされた。なかでも感心した伝記は、大分市立大在小学校の校長をしておられるという、大分女性史研究会員でもある佐藤智美さんという方が、これから自分の夢と希望に向かって生きる少年少女に、野上弥生子の百年の人生を届けたいと、ですます調のとても読みやすい文章で書かれた『野上弥生子―時代を見つめ書き続けた100年の生涯』。その思いに呼応して、森洋一による弥生子の足跡をたどってその生活や景色のスケッチのイラストのような挿絵も添えられていて、「大分県先哲叢書―普及版」という地域に根差した愛情とローカル性も心地いい。

 

 でも何より励まされたのは、弥生子の気負わない、だが時代や社会の本質を見据えた凛とした優しさと靭さに裏打ちされて、九十九歳まで書き続けた意志の強さだった。一八八五年五月に大分県臼杵市に生まれ、一九九五年三月の逝去までほぼ百年。十五才で上京して明治女学校に入学し、二一歳で卒業とともに学び続けるために野上豊一郎と結婚。二二歳で書いた習作『明暗』が夏目漱石に認められ「文学者として年をとるべし」と長文の手紙を貰ってから、三人の男の子を育てつつ、「青鞜」などに小説を書き続けるが、本格的に認められたのは、関東大震災や二つの大戦を生き延びた戦後だった。『迷路』が刊行されて読売文学賞を受賞したのは、七三歳のとき、『秀吉と利休』が刊行された女流文学賞受賞は七九歳。女学校時代を描いた小説『森』の連載開始は八七歳、九九歳で逝去の後に最終章が遺されていて一一月に刊行。その後にも、キリシタン大名だった大友宗麟について書く予定だったという。しかも一九二三年から始めた日記はほぼ毎日書かれ、大学ノート百十九冊あったとか。加えて六十五歳の時の夫豊一郎の亡き後は、夏の北軽井沢の山荘と冬の成城の家で、手伝いの手はあったものの、ほぼ一人暮らしだった。でも北軽井沢で交流のあった哲学者の田辺元氏とは、田辺夫人没後に、山荘に週二回通って、哲学と文学の講義を受けつつの長く豊かな交流があったようだ。お見事というしかない生き方…。

 

 六十八歳くらいで余命短いと騒いでいるわが身が、恥ずかしくなる。もっとも、くも膜下出血の後遺症で介護認定されたおかげで、毎週二回通っている通所リハビリでも、七〇-九〇歳代のお元気なご高齢者たち、とくにKさんから、「あなたはまだ若いのだから、もっとちゃんと口紅つけてお化粧もしなさい」(!?)となどと励まされている。元気になる心身鍛錬のありがたい場である。「老い」とは年を重ねること。野上弥生子は、そのはるか上をいってとても凡人には手が届かない存在だとしても、励まされる素敵で見事な先達、お手本はたくさんおられる。

たとえば片手くらい年長だけど、長い髪を結いあげて竹久夢二のモデルにもなりそうな衣装センスもいいYさん。超のつくほどの読書家で蔵書家でもある。いつも本を読んでいて、最初読んでいた大江健三郎から話が始まって、五木寛之水上勉中上健次やら村上春樹…最近は女流文学、中里恒子、宇野千代小池真理子、そして野上弥生子等々と、次々に借りて読むことになった。白状すれば、演劇をやっていると、次第に遠くまでの劇場通いがしんどくなって、舞台はエターナルナウなライブアート、つまり上演が終わると消えていくことが、魅力でありつつ、切なくもなる。そういうときにやたらと小説と文章が読みたくなる。もちろん狛江市立図書館がマイライブラリーなのだが、小説はもっぱらY文庫から借りて、後で二人でああでもない云々と語り合える。我が家に入らなくなった村上春樹などの小説はY文庫に引き取ってもらったり。彼女は朗読活動もしていてときおり発表会もやって、演劇にも関心・造詣が深いし。たまに観劇や食事も一緒する。老いてできたありがたい友人だ。若い谷川塾の友人たちももちろん大切な我が宝物なのだが、若さが羨ましくまぶしいときもあるから。

 「生きるとは書き続けること」という野上弥生子には及ばないとしても、老いとは心身ともに元気で年を重ねつつ、「読み続ける、観続けること」―-誰にもいつかは必ず来るお迎えまで、そうでありたいなと切に思うこの頃だ。

中川安奈さんのお別れ会のこと。  

 

中川安奈さんのお別れ会のこと。

 

 女優中川安奈さんが、去る11月17日に癌のために49歳の若さで急逝された。そのお別れの会が11月24日に青山葬儀所で執り行われた。

真っ白な斎場の奥に、安奈さんの凛とした美しい遺影を、100万本の(実際は2000本とか)真っ赤なバラが取り囲む。夫君栗山民也氏の意向というが、それは、無念にも若く美しいさなかに彼岸に召されてしまった安奈さんにふさわしく、まだまだ女優としてこれから大輪の花を咲かせられたであろう中川安奈さんの可能性への我々の最後のカーテンコールでもあった。最後の一人一人の献花も真紅の薔薇だった。

 

 映画『敦煌』でデビューし、新人賞など総なめしたが、たくさんの映画やテレビの出演はあっても、ドイツ演劇研究者の私にとってはやはり舞台女優だった。シェイクスピアの舞台などでも映えた姿で際立っていたが、私にとって忘れがたい作品をあげるならば2つ。

 ひとつは、2006年、世田谷パブリックシアターで上演された宮沢章夫作・演出の『鵺/NUE』。これはこの劇場の芸術監督野村萬斎による「現代能楽集」シリーズの第3弾。能の物語や様式を大胆に現代演劇へと架橋・融合させる試みを目指して2002年に始まったもの。第1弾は川村毅作・演出『AOI/KOMACHI』、第2弾は鐘下辰夫作・演出『求塚』。第3弾は世阿弥の作と言われる夢幻能『鵺』――「頭は猿、尾は蛇、足手は虎のごとく、鳴く声鵺に似たりける」と怖れられる怪物「鵺」の霊を旅の僧が弔い成仏する…という話を、若い宮沢(1956~)は、国際空港の待合室でのヨーロッパ公演を終えた日本人演劇団員たちの前に現れた黒づくめの男に変換する。清水邦夫の作品群が引用され、演出家は1970年前後の蜷川幸雄を思わせ、この日本に帰りそびれた男は現代人劇場の岡田英次か蟹江敬三か。そういう中で小劇場系の日本人演劇団を率いる制作者役が中川安奈、彼女だけなぜか「桐山雅子」という固有名で登場、すべては暗喩的な時空にあるのだが、60-70年代のアングラ演劇と、宮沢も含めたその後の小劇場世代が対峙するのは、40年間をはさんだ、いわば行き場のなくなった鵺的な演劇のトポスだろうか、安奈さんはそんな不思議な中間地帯でさりげなく制作者を演じて見せた。詳しくは拙著第4章参照。

 

 もうひとつが、「日本におけるドイツ年」で来日した、シュリンゲンジーフと並ぶ鬼才ルネ・ポレシュの作・演出による『皆に伝えよ、ソイレント・グリーンは人肉だと』。というベニサンピットでのtpt公演。題名からして不思議だが、映画『ソイレント・グリーン』と『ブギーナイツ』をもとに。ポレシュが勝手自在に作・演出。ホストクラブのようなエログロの空間に3人の女と一人の男(中川安奈木内みどり池田有希子長谷川博己)が登場し、ベッドに固まって代わる代わるマイクでささやくように、ミシェル・フーコーからの引用のようなセックスやお金にまつわる哲学的言葉をしゃべり続ける、何の筋書きもない言葉の奔流…・ドイツはベルリンのフォルクスビューネでの付属プラーター小劇場でのポレシュ作品を知る身には周知のポレシュ流の言葉と動きの洪水なのだが、しかもしゃべっている俳優のアップや表情が大型スクリーンに映されたり、叫んだり、踊ったりのチープなパフォーマンスが挟まったり…・しかも4人の俳優たちはあらかじめ決められた役や台詞をしゃべるのではなく、ポレシュの書いた言葉を俳優自身の心で受けとめて語るように要請される。俳優たちは知を求める存在で、「演技をするな」、フーコー/ポレシュのテクストを自分たちなりに理解・思考して表現せよと…安奈さんをはじめ4人の俳優さんたちはその頃すでに十分に日本では有名な役者さんたち。よくこういう芝居への出演を引き受けたと思わせるほどの思い切った演技と表情と対応で、強烈な演劇体験を観る者にも迫ってくる。

台本を翻訳したのが我が教え子で仕事仲間の本田雅也/木内宏昌の両名だったこともあって、その稽古のプロセスも聞かせて貰ったものだが、最初は戸惑ったというが、木内みどりさんのインタビューを借りると、「ポレシュ以前とポレシュ以後に分かれるぐらい影響が大きかった」という。私自身、2002年に初めてベルリンのプラーター小屋でポレシュを観たときは、何が何やらちんぷんかんぷん、それでも切符が買えないほどの連日の人気ぶりだった。ともあれドイツ演劇の過激さは半端ではない。だが日本での4人の俳優さんたちの「演技」への勇気と思い切りの良さにも共感と敬意を感じたものだ。

 

 祖父が千田是也氏で祖母がドイツ人妻のイルゼさんというクオーターで、あるパーティで同席して見とれて思わず「本当にお美しい方なのですね」と口にしたら、「そんな…」と困った顔をされたこともあったっけ。お別れの会では、共演した熊谷真美さんが、「なぜ栗山さんの芝居に出ないの」と聞いたら、「人生を全部演出してもらっているから、舞台には出なくていいの」と答えられたという。でもまだまだこれからの女優さんだった。私個人は、安奈さんのヘレナ役で栗山民也演出の『ファウスト 第2部』を観たかった。

東京外語大のドイツ語劇と 出版会

 

東京外語大のドイツ語劇

 

11月20日から24日までは東京外語大の外語祭で、何よりの売り物は、26専攻語に分かれたクラスで、それぞれの専攻語での外国料理店と外国語劇が5日間にわたって提供・上演されることだろう。通称語劇GOGEKIは既に百年以上の歴史と伝統をもち、2004年に文科省から「特色ある大学教育プログラム 特色GP」に採択され、4年間の活動と成果は『劇場を世界に―外国語の歴史と挑戦』(新宿書房2008)にもまとめられている。僭越ながら教育的かつ資料価値も高いお勧めの面白い名著なので、ご笑覧を!

在職中はこのドイツ語劇にもほとんど携わってきたが、退職後、くも膜下出血の入院・手術・リハビリでしばらくご無沙汰していて、久しぶりにドイツ語劇を覗きに出かけた。

 2000年に府中の新キャンパスに移ってからも、かつては大教室を何とか工夫して上演空間にして凌いできたのだが、何とかちゃんとしたホールで語劇を上演できるようになりたいという積年の悲願が神様に通じて(願えば通じるものですね!)、2010年3月に、客席500余の最新設備を備えたプロメテウスホールと、それを中心にした複合施設アゴラ・グローバルまで竣工。2010年3月に退職した身は、その準備過程にはもろもろ携わったものの、語劇のホール上演をちゃんとした形で観るのは初めて。教室での最後の『魔笛』上演に関しては、拙著『演劇の未来形』でも最後に触れているので参照されたい。

 今年のドイツ語劇は、ケストナー作の『飛ぶ教室』。少し早めに着いたので、その前のヒンディー語劇『シャクンタラー』も覗く。5世紀ごろのインドで書かれた戯曲らしく、シンプルな王と王妃の恋物語。それらしくカラフルな衣装をふんだんに使って、舞台も木や森や林に印象的な照明で影絵ふうにし、数十名ほぼ全員参加で歌って踊っての達者な舞台。

 対してドイツ語劇はそういった装置はほぼ捨象して、内容と人間関係とドイツ語の言葉に集中。1930年代前半のドイツのギムナジウムの寄宿舎。有史以来いがみ合っている近くの実業高校との戦い。いがみ合い。捕虜を捕り合ったり決闘したり…その両者の対立が、衣装や態度やしっかりしたドイツ語の発音などで浮かびあげられ、最後は雪合戦で終わる。合間に様々なエピソードも絡みながら、何せ、どの語劇も80分というタイムテーブルが決まっている。どう台本をわかりやすく刈り込んで、楽しく舞台化していくかはいつも思案処。女子が男子学生を元気に演じるのも違和感なく、すっきりくっきりした若々しい青春群像劇になっていて大健闘だ。こういう満員御礼の立派な劇場で毎年「語劇」を上演できるとは何たる幸せかと、つくづく実感。どうぞ、若い語学力と演技力と最新設備のホールに支えられたけっこうハイレベルの東外大語劇を、ぜひ一度ご観劇を。

 この語劇には先輩同窓会がいつもたくさん観に来て下さる交流の場にもなっていて、私も退職以来のゲルマニア会の皆さんへのご無沙汰をお詫びする好機となった。

 

 東京外国語大学出版会

ただこの日は観劇後に、外語大出版会が無事に6周年を迎え、編集者の交代もあって、その祝いと拙著『演劇の未来形』の出版祝いの会を開いてくださることになっていて、編集委員会や縁の方々10人ほどで、楽しい嬉しい宴となった。

東京外国語大学出版会も大健闘中だ。すでに40冊近い刊行、最新刊は拙著と、見事な追悼論集『山口昌男―人類学的思考の沃野』。残念ながら非常勤職員の任期制雇い止め規則で、この間ずっと頑張ってこられた編集者の竹中龍太氏が5年目で大内宏信氏に交代することになったが、出版界の厳しい状況の中でのこれまでの外語大らしい素晴らしい研究活動成果の刊行業績を寿ぐとともに、大学出版会の灯火をこれからも負けずに輝かせ続けられるためにも、今後ともに、皆様、どうか一層のご支援を!

秋深し、演劇の秋、いざ生きめやも

 

芸術と演劇の秋…新国立劇場の『三文オペラ』も無事に千秋楽を迎えたので、頑張って、10月4-5日に秋の京都へ旅をした。といっても、京都エクスペリメント(KEX)と、その時だけの日本上演という She,She,Popの『春の祭典』を観るためだ。とても一人では無理なので、すべてにおいて頼りになる谷川塾の仲間/友人の柴田隆子さんに宿も切符も手配してもらって同伴させてもらうという、おんぶに抱っこの大名/お姫様旅だ。超幸運にもこの週末は二つの台風の合間をくぐってのいいお天気で、よろずにラッキー! 感謝!

 

京都エクスペリメント(KEX)と京都芸術センター

2010年に始まって今年で5回目という京都国際舞台芸術祭、通称キョート・エクスペリメント(KEX)――もちろん日本でも、82年からの利賀フェスティバルのような国際舞台芸術祭はあったものの、2008年に始まった東のF/ T(フェスティバル/トーキョー)に関しては近著の『演劇の未来形』でもいろいろ紹介しているが、西のKEXの方は私の入院騒ぎもあって訪問さえできずに、我が教え子の川崎陽子さんも頑張っていながらと、ずっと気になっていた。やっと柴田さんの杖を得て2日間だけ念願を果たせたのだが、後発の利点をいかして、コンセプトと組織つくりにいろいろな探りや工夫があって、なるほどと納得・感心させられた。

ただ、その中心母体ともいうべき、廃校となった明倫小学校の跡地と校舎を利用して作られた京都芸術センターは、開館した2000年に、東大の内野儀さんやセゾン文化財団の久野敦子さんらと訪ねていた。どことなく懐かしく、居心地のいい空間で、いろんな透き間と拡がりがあって、自由自在で、アートと風景と、現在と歴史とパフォーマンスが共存できる、子供に帰れるような、大人としても立てるような・・・そ、ベルリンの随所にあるような、ホールやギャラリー、カフェなどを備えたアートスペースとしてのその後の可能性に思いをはせたものだ。それまでのもろもろの前史や太田省吾さん、遠藤寿美子さんら先人たちの努力を踏まえて、いまや京都の芸術振興の拠点施設になっている。KEXは、そこと京都市京都造形芸術大学NPO京都市芸術文化協会、京都府民ホールアルティなどの主催・共催で、メセナ文化庁の助成も受けた合同のKEX実行委員会体制だ。明倫小学校が京都の町衆たちの力でできたことや、ドイツは自由都市ハンブルクに市民たちによる最初の国民劇場が造られたことなどをも想起させる。ベルリンの芸術家会館ベターニアンや、複合芸術施設拠点HAUも先例・範例――官でもなく民でもない公の舞台芸術文化がここなら育つか? あれから10余年…KEXがついに5年目だ。

今年のKEXは、9・27から10・19までの3週間に11の公式プログラム+フリンジ企画で開催。私たちが観たのは、京都芸術センター講堂での村川卓也による、当日何が起こるかわからないというコンセプト的でハプニング的な不思議な舞台『エヴェレットゴーストラインズ』と、コロンビア人の振付家ルイス・ガレーによる、肉体と思考がせめぎあう、濃密なるソロダンスの舞台『マネリエス』(アガンベンの『到来する共同体』の一節からとられた言葉だというが、意味の詳細は不明)。そして、大きな府民ホール「アルティ」での、京都とベルリンの共同制作の新作だという『春の祭典―She,She,Popとその母親たちによる』は、面白いアフタートークの途中までで、あわててタクシーで新幹線へ。

 

春の祭典―She,She,Popとその母親たちによる』

1990年にギーセン大学卒業生(つまりレーマンの教え子)の女性8人で結成されたDamenkollektiv、すべてを集団討議と作業で作り続けているShe,She,Pop。名前は聞いていたが、初めて舞台(?)を観たのは、2011年の神奈川芸術劇場KAATの開幕シリーズのプロジェクト「世界の小劇場ドイツ編」での客演で、シェイクスピアの『リア王』を下敷きにした『TESTAMENT(遺言/誓約)』(以下『リア』と略記)。これについては入稿に間に合ったので、『演劇の未来形』で触れさせて貰った。

リア王』を遺産相続や老親介護、世代間ギャップと読んで、自分たちの実の父まで舞台に上げて『リア王』の場面を演技し、討議し、喧嘩し、父子の事実に基づいたリアルな問題と重ねていく。そこまでやるかいと、あのときも度胆を抜かれた。

それを受けて2013年のKEXに、『シュプラーデン(引き出し)』で招聘された。統一前の東西ドイツで育った6人の女性が引き出しからそれぞれ自分の記録/記憶を引き出しつつ語って、対話しようとする…この公演は残念ながら観られなかった。

 

そのときに今回の共同製作の話がもちあがったという。しかも今度は、ストラヴインスキイの『春の祭典』で、母親をテーマに創ろうという。これは、這ってでも行かざなるまいだ。せっかくいったのだからと、だから2回も同じ公演を観て、アフタートークまでつきあった。2回目は疲れた身が大きな母親の映像の顔に圧倒されて根負け、ちょっと眠ってしまったけれど…。

『リア』は王/父性?/エデイプス的父権が核にあるから、テクストをめぐって討議できるが、母子関係はどう扱うのだろう、という興味もあった。そもそも下敷きにされたのが、あの傑作バレエ音楽、2013年がニジンスキイ振付でバレエ・リュスによる初演から100周年という話題作の『春の祭典』。古代ロシアの異教の人々が春を迎える祭礼に処女を生贄に捧げる儀式がテーマだ。私などはすぐに、あのピナ・バウシュ舞踊団の『春の祭典』(1975)が思い出される。両性の闘いのような男女の群舞が圧倒的だったが、それが母子関係のテーマに、どう変換されるのか。言葉より身体や感情による表現か。

『リア』では実際の父子が来日して俳優として同時に舞台に乗って、文字通りのバトル。

それが、『春の祭典』では、実の母親たちは映像による参加となっていた。4枚の大きなカーテンのような映写幕の中に、それぞれの母親が映り、語り、踊る。その幕の前後や間で子供たちが語りかけたり、反論したり、討論したり… なるほどそうきたかと。大きな布をコートや身を隠すマント、古代ローマのトーガの役職の象徴のように巻いたり、被ったり、本人と役割と立場の使い分けでもあるだろうか。それにしても実際の舞台と音楽と映像処理の扱い方が実にうまい。母親の圧倒的な夜叉のような顔がワーッと迫ってくると、論理を超えた迫力がある。前述したが、これが母の迫力か、かなわんなあと、私は圧倒されてか逃げからか、眠ってしまったが。疲れです…映像ながら、不在の在の圧倒的な存在感だった。蛇足ながら、父が結核で不在の母子家庭の私は母とは大の仲良しだったが…

ただ、母親とは家族や社会や共同体における女性の存在や位置、立場を浮かび上がらせる。女でなくなる母は犠牲者なのか、愛は奉仕なのか、犠牲なのか。ギブアンドテイクではないのか、家庭は社会ではないのか。そういうことが直接に語られたわけではない、私の中での谺がいろいろにエコーしただけだが、個人的な問題と社会的、普遍的な問題のクロスは、父親とよりもっと深刻かもしれない。母の立場で観るか、娘/子の立場で観るかは、合わせ鏡だろうか。私には子供がいないのだが、一緒に見た柴田さんは、両方から見られ、責められているようでと…非言語的表現言語のもつ力ということも、ピナ・バウシュとは違った意味での、言語と身体と感情の関係を考えさせられた。

 

アフタートークでは、昨年、京都に滞在した際に、日本の神話や家族社会学における女性の自己犠牲について取材したり、京都やさまざまな儀式に参加して、日本の母親たちにインタビューしたり対話したという。それで、それぞれの子供が母を語るだけではなく、特定されない普遍的な母親たちの姿や、共同体を成立させる要素としての母を浮かび上がらせたい、母同士の会話や、神秘的な儀式と現在をもクロスさせたい、と考えたと…。

ともあれ、一作ごとに手法もテーマも、舞台創造方法も違う。きわめて知的なグループで、ちょっとしばらくは目が離せない。初日乾杯のときに、次作についてこっそり尋ねたら、「公立劇場」の問題をとりあげようかと考えていると…・それが本当なら、ますます興味がわく。いま自分たちが抱えている問題を演劇化していきたいのだ、とか。このグループはいつまでどこまで続くのか…ホント、目が離せない、できるだけ応援しよう。

この共同制作のプロジェクトを担当したのが、我が教え子の川崎陽子さん。頑張ったご褒美に、この秋から1年間のHAUでのベルリン留学が決まったという。何重も嬉しい!

 

秋の京都?

それ以外は、京都芸術センターでやっていたいくつかの展覧会や映像、インスタレーションを見たり…。東京から多くの知人・友人も来ていて、久野さんやオン・ケンセン、内野さん、等々、プレゼンターらしい外国人もたくさんいて、ここが国際的な舞台芸術のネットワークのハブになりつつあるのかなと嬉しく。京都に根差した実験的な創造と交流。

せっかく秋の京都に来たのだから、何も見ずに帰るのも恥ずかしいかと、…泊まったホテルの真ん前が二条城。ここだけは一応、城内と庭をちょっと散策、京都御所の前も何度も素通り…・でも、心も頭も満たされての2日間、柴田さん、ありがとう。

でも高齢者はさすがに疲れた2日間、台風にあわずに帰京・帰宅して、しばらくダウン。もう一度行きたかったが無理。このブログも、遅ればせながらやっと書き上げてアップ。

〈あとがきのあとがき〉『三文オペラ』の訳者・谷川道子さんに聞く(光文社ブログ)

台風騒ぎの中、急に秋深し、の気候になりましたが、ご無事でお元気でしょうか。先月の9月28日に、無事におかげさまで好評裡に、『三文オペラ』も千秋楽をむかえることができました。たくさんご観劇いただき、またいろいろなサポートも含めて、感謝しております。ありがとうございました。

 

三文オペラ (光文社古典新訳文庫)

 

光文社古典新訳文庫版の『三文オペラは初日に合わせて刊行されたこともあって、「訳者あとがき」に、舞台のことが全然触れられていませんでした。その分、光文社のブログに、稽古レポートや初日報告も載せてくださったのですが、最後に、「『三文オペラ』あとがきのあとがき、谷川道子さんに聞く」が編集者の大橋由香子さんによるインタビューの形でまとめられ、以下のようにアップされました。

大橋さんによる以下のような推薦文もありますので、ご参照いただければ、嬉しく思います。

これをもって、我がブログでも、新国立劇場での『三文オペラ上演をめぐる考察はとりあえず、締めさせていただきます。

 

 

また、『演劇の未来形』も、東京外国語出版会から刊行されました。

演劇の未来形 (Pieria Books)

ともにご報告させていただき、よろずのもろもろのご支援に感謝しつつ・・・

 

「『聖母と娼婦を超えて』から始まるジェンダーの視点をからめたブレヒト論にもなっていると思いますのでぜひ、ご一読ください。どうぞよろしくお願いします。

大橋由香子」

 

 

 

 


〈あとがきのあとがき〉『三文オペラ』の訳者・谷川道子さんに聞く - 光文社古典新訳文庫

 

三文オペラ』補遺!

 

前回の「マンスリー演劇講座」のブログについて

ハンブルグ在住の原サチコさんから、訂正メールが届いた。ニコラス・シュテーマン演出の『三文オペラ』と日本人女優原サチコのポリー役でのデビューは2002年ハノーファー演劇場が初演で、2011年からケルンで再演されたと。わがケアレスミス!ちゃんとフォローして下さっている、さっそく訂正をと思い、全体も改行や小見出しを入れたりと多少読みやすくして全体を差し替えた。が、何故か同じものがいくつも・・・ヘルプ!

 

昨25日、博多から旧友が観劇に上京してくれたので、3度目の本番観劇。観るたびに細部も全体も進化・成長してあきない。なるほど、そうきたかと…にやりとしたり!

もうあと3日、3ステージかと思えば、名残おしさは募るが、意味の確認は必要だろうか。

 

その日の夕刊に、山本健一さんが劇評を書いて下さった。新訳;新演出ながら「原典に忠実と言うか、ブレヒト劇の上演にふさわしい大胆な読み替えはない」・・・そのことについて、少しだけ補足させてほしい。前ブログでも触れたように、たしかに世界中で、日本でも、さまざまな『三文オペラ』がカバー、映画化、上演されていて、それは個人的には歓迎すべきことと思っているのだが、多少の表や裏の事情がある。

 

 『三文オペラ』受容史

初演前後(ロングランで俳優が代わったり)のてんやわんやの成立事情もあって、この作品自体が「ワーク・イン・プログレス」の様相をなし、たくさんのヴァ-ジョンがある。しかもブレヒトは、パープストの映画化にあたって、ネロ映画会社からは拒否されたが映画シナリオ『瘤』や、発展形の浩瀚な小説『三文小説』も書いている。『屠畜場の聖ヨハンナ』も、ブレヒトの問題意識では、同じ延長線上にある。生前のブレヒト自身の『三文オペラ』再演がなかったこともあって、いわゆるお墨付きの「定番」や「定本」がないのだ。

 

最初に本になったのはキーペンホイエル社から出た「試み」第3分冊。ブレヒトの版権を一括管理するズーアカンプ社は、一九九八年に生誕百年記念の30余巻のベルリン版ブレヒト大全集を出したが、これにはそのキーペンホイエル社版が採用されている。今回の光文社文庫でもそれを使って邦訳した。だが、東西ドイツに分かれていた時代はなおさらに、いろいろな全集や選集が出てもいる。しかも、東ドイツ時代はブレヒト未亡人ヴァイゲル率いる劇団ベルリーナー・アンサンブルとブレヒトの遺産継承委員会が権威を持っていて、旧西ドイツや西側での「勝手な」上演にクレームをつけて上演中止にしたり・・・・

のみならず、『三文オペラ』のヴァイルの作曲の版権は、ウイーンのユニヴァール出版がもっていて、レコードのカバーやコンサート、楽譜なども自立して売れに売れた。また、アメリカで1952年にマーク・ブリッツスタインの名訳とレーニャのジェニー役で、何とレナード・バーンスタイン指揮で、まずはブランデイス大学でのコンサート版として上演され、それを契機に1954年にニューヨークはリス劇場で『三文オペラ』として上演され大ヒット、それがオフ・ブロードウエイ誕生の契機ともなって、「マック・ザ・ナイフ」や「海賊ジェニーの歌」をはじめ、アメリカで人口に膾炙する大ヒットナンバーにもなっていく。未亡人としてヴァイルの名声の復活に力を注いでいたロッテ・レーニャの尽力がみのって、世界の『三文オペラ』の時代が到来。クルト・ヴァイル遺産継承委員会もできて、人気とともに『三文オペラ』の上演料は高くなり、台詞や音程の変更を認めない上演権取得はますます厳しくなった。それが逆にさまざまな「海賊版」というか、自由な翻案上演に拍車もかけた。未亡人戦争と言われたり、東ドイツvsアメリカ・ニューヨークの文化代理戦争の様相も呈して・・・そもそも『三文オペラ』とはどういう作品で、どんな位置と可能性を持っていたのかさえ、見えなくなっていった。ブレヒトもヴァイルも没後50年経っているから、版権も切れたかとも思っていたが、いまなおクルト・ヴァイル・ファンデーションは健在で、『三文オペラ』の上演権料は高いと聞く。

 

原典・原点への回帰の意味

「ポストドラマ演劇」の時代に、何をいまさら「原作に忠実な上演」か、と言われていそうだが、逆なのだ。今だからこそ再度、『三文オペラ』の原典と原点に立ち返って、ブレヒトとヴァイルが何を試みようとしたのかを探る意味はあるのだ、あったと思う。

ツイッターなどを覗くと、『三文オペラ』という作品の意味が初めて分かったとか、お名前を書いていいのか…ブレヒト/ヴァイルの曲をいろいろにカバーもしておられるT.Kさんが、「第3幕のフィナーレ」の意味が初めて分かったとつぶやいて下さっていた。

私は自分のブログで、「三文ドラゴン」といういい方をわざとキ―ワードのように使ってきたが、ピーチャム夫妻を中心とする乞食ワールド、メッキースの泥棒団、ジェニーを中心とする娼婦ワールド。背後に警視総監ブラウンが率いる警官たち――そのすべてのお話が女王の戴冠式をめぐって、大きな鉄骨鉄橋のようなシンプルでダイナミックな舞台装置のなかで展開するために、それが龍のように見えて、それぞれの世界がくんずほぐれつするこの世の集団力学、いわば民衆のエネルギーの化身のような『三文オペラ』という龍=ドラゴンが本当に生命を得てうごめき始めるように見えてくる。

第3幕のフィナーレでまた登場人物の全員によって、「これですべてがハッピーエンド」、「現実の世界ではこうはいかない」、「不正はあまり追及すると、この世の冷たさに、凍りついてしまう」と輪唱・合唱される。二重三重にこの世の嘘と真のからくりが引っくり返って問われ、笑い飛ばされる。ブレヒトの歌詞にヴァイルが作曲した23の歌=ソング=曲が、実は全体をコメントしつつ、引っ張って行くドラゴンだった。

ブレヒトとヴァイルの共同作業が目指していたものが、90年後にまた浮かび上がって来る。ヴァイルの側からまた『三文オペラ』を読み直す契機となる。大田美佐子さんの『ヴァイル評伝』が完成したら、また、その意味が語り直される機会がくることも楽しみだ。バレエ『小市民の七つの大罪』もソングプレイ『小マハゴニー』も日本で観たい!

 

ここから再度、1920年代の『三文オペラ』の意義が、21世紀に復活していくのだと思う。脱構築は、しっかりした構築なしにはあり得ない。

 

  9月13日に『三文オペラ』トーク、女性三世代トリオで開催!

 

     「マンスリー演劇講座」――「『三文オペラ』の魅力を探る」

 新国立劇場では毎月無料で、上演中の舞台と関連させつつ、観客に演劇への関心を深めて貰おうと「マンスリー演劇講座」というのを企画していて、今回はもちろん「『三文オペラ』の魅力を探る」・・・・マチネ―公演後の大きな中劇場の舞台に立つのは、まずは今回の『三文オペラ』公演をブレヒトとヴァイルの原典・原点に戻って演出したいという芸術監督宮田慶子さんの熱い思い。

 宮田さんは、今が旬の売れっ子演出家、新国立劇場を背負って立つ、頼りになるめげないタフな女性だ。何せ、劇団青年座入団2年目の『ミュージカル 三文オペラ』で楽団員としてピアノを弾いて全国巡演までなさったという、演出も今回で3度目だ。

 1世代若いのが、大田美佐子さん。「クルト・ヴァイルと音楽劇」のテーマでウィーン大学で学位(博士号)を取得し、もっかそれをもとに「ヴァイルの評伝」を執筆中というこれからのホープ。大田さんは1993年のケルン演劇場の『三文オペラ』日本客演ではオーケストラピットでシンセサイザーを弾かれたとか、ヴァイルへの関心も四半世紀。ともに関わりは半端ではない。

 対して古希近い最年長の私は、ブレヒトやドイツ演劇との付き合いは半世紀近いけれど、3年前にくも膜下出血から奇跡の生還をした身、やりきれるかなあと危惧しつつ『三文オペラ』の新訳をお引き受けし、何とか初日とこの三世代トークの日を迎えられて、感無量。

 おそらく3人ともに語りたいことは山ほどあるなか、公演プログラム担当の佐藤優さんの名司会で、トークは『三文オペラ』を中心に順調に進む。

 

      ブレヒト x ヴァイル

 ブレヒトとヴァイルの共同作業は、1927年のブレヒトの詩集『家庭用説教集』のテクストに興味を持ったヴァイルが作曲したソング劇『小マハゴニー』から、ともに亡命中のパリでのバレエ『七つの大罪』まで、わずか6年間の7作品。時代のよろずの転換期の気候(クリマ)の中で、お互いにもっとも、音楽や演劇の改革に燃えて、実験精神で作品をつくっていたときだった。ヒンデミットたちの新音楽運動や、バーデン・バーデン音楽祭へのいわゆるブレヒトの「教育劇」の作品『リンドバーグの飛行』や『イエスマン』も作曲、1930年にはオペラ『マハゴニー市の興亡』も初演された。

 しかも1933年にパリで「バレエ1933」という催しがあることを知ったヴァイルは、ブレヒトに台本を執筆しないかともちかけて、わずか数日でできたのがバレエ『小市民の七つの大罪』だった。ルイジアナの片田舎から成功を夢見て大都会に出てきた娘アンナ、実は彼女は二つに分裂していて、バレリーナのアンナⅠが自由に生きようとすると、歌手のアンナⅡが正しい非人間的で打算的な道に引き戻す。

 この作品はパリのシャンゼリゼ劇場で、ジョ-ジ・バランシンの振り付けでアンナⅠを女優ティリー・ロッシュ、アンナⅡ役をロッテ・レーニャで上演された。ピカソやストラヴィンスキイらには絶賛されたが、新しすぎて、観客の反響は悪かった。だが、約半世紀後に、たとえばピナ・バウシュに大きな影響を与え、彼女の「タンツテアタ-」への大きな契機になったという。

  ただしそんなこんなまではトークではとても語れなかったが、トーク前後に、大田さんの「ヴァイル評伝」が出たら、この3人でまたブレヒト=ヴァイルのイベントでもやりたいね、という話になった。

 

    ブレヒト+ヴァイル+アウフリヒトの野心と挑戦

 ともあれ、基本的にはブレヒトとヴァイルの間には、そういう互いの才能や関心のあり方のへ深い信頼関係があって、『三文オペラ』はたしかに、プロデューサ-のアウフリヒトのシフバウアーダム劇場のリニューアル・オープンでひとやま当てたいという野心と打算にブレヒトが乗って、ヴァイルに声をかけて大車輪で仕上げたてんやわんやのなかでの「頼まれやっつけ仕事」だった、ように見えるが、失敗するのも覚悟の上で、30歳前後の若いパワ-で強引果敢に初演の大成功までもっていった二人の、1928年8月31日初日という時限付きのこの仕事にかける思いや努力、集中力、志においては、一期一会の真剣勝負ではあっただろう。単なる偶然ではない、時代精神とシンクロして必然となったミラクルだ。

 

      ヴァイル音楽の魅力

 『三文オペラ』には、音楽的にも過渡期の時代で、当時のクラシックやオペラ、ジャズ、俗謡、タンゴ、ポピュラー音楽等々、さまざまな要素が実にうまくミックスされている。ソングそれぞれに異なる機能を持たせつつ、基本的には、序曲、第1幕のフィナーレ、第2幕のフィナーレ、第3幕のフィナーレ、とオペラの形式は踏襲しながら、ブレヒトの人を食ったような歌詞まで、ヴァイルは付かず離れずに乖離と寄り添いのバランスで実にうまく曲に乗せている。オペラのパロディではなく、ブレヒトの言葉を借りれば、「オペラの機能転換」か。

 聞き手はその陶酔的な毒性に気付かぬうちに嵌ってしまい、大田さんの言葉を借りれば、「アドレナリンを分泌させる美しいメロディを心地よく口ずさみながら、後で気付いてぞっとするような」計算された音楽世界とテクスト世界の仕掛けが『三文オペラ』の魅力、魔力なのだろう、とは3人の結論。他にもいろいろトーク・テーマはあったのだが、女性視線だとか、民衆劇の構造とか、それらは以下中略。

 

      『三文オペラ』さまざま

 ただもうひとつだけ。『三文オペラ』は世界中でさまざまにカバーされ、映画化され、舞台化されている。そもそも千田是也さんの1932年の東京演劇集団TESによる日本初演は、ブレヒトの台本が手に入らず、ジョン・ゲイの原作とヴァイルの楽譜、パプストの映画シナリオとご自身のベルリン観劇の記憶とで、舞台を明冶初年に置き変えた自由翻案の『乞食芝居』だった。

 半世紀余の後、劇団黒テント版の『三文オペラ』も舞台を明治初期の東京に移し、日本の近代化の意味を問いかけた。

 先日、SPACで客演した『ファウスト』で日本人観客の度肝を抜いたポストドラマ演劇の旗手の演出家ニコラス・シュテーマンが2002年にハノーファー演劇場で演出した『三文オペラ』もすごかった。タイのバンコクの安酒場に買春ツアーでやってきた男たちが、日本人女優原サチコ演じる酒場の女給ポリーと「三文オペラごっこ」を演じるのだ。これが、ドイツの公立劇場専属(今の所属はハンブルグ演劇場)で活躍するほぼ唯一の日本人女優原サチコの実質的なデビュー作となった。もちろんドイツ語での舞台で、背後にブレヒトの原作テクストがテロップで流れる。

 

     原点・原典への立ちかえり

いろんな『三文オペラ』があっていい、あった方がいいと、私は思う。それが作品と受け手の振れ幅だし、キャパシティだ。そういうなかで、そもそも『三文オペラ』というのはどういう作品で、どんな可能性があった・あるのだろうと、今回のように原典・原点に立ち帰る試みもやはり必要なのだと思う。たくさんの新しい発見があったし。初めて『三文オペラ』という作品がよくわかった、という声もたくさん聞こえてきた。それが日本演劇の舞台の古典を豊かに創っていく歴史の礎石になるのだ。そう実感できた体験だった。