谷川道子ブログ

東大大学院修了(ドイツ演劇)。東京外国語大学教授。現在、東京外国語大学名誉教授。

 『三文オペラ』9月10日に開幕、”三文ドラゴン”始動!

 あくまで翻訳者としてだが7月半ばに顔合わせして以来の2カ月近い稽古に何回か波状的におつきあいさせて貰って迎える初日は、やはりわくわくドキドキします…。

 稽古場で現寸大の舞台を組んで稽古してきたものが本番の千席近い大きな中劇場の舞台に置かれると、承知はしていたものの、なるほどこういうスケールかと、『三文オペラ』の世界と現在の世界が合わせ鏡で浮かびあがってくるよう。舞台に乗る役者だけで40名近い、楽団を入れるとほぼ50名。スタッフ総勢で80名のパワーの結集。

 

 稽古場報告のときも書いたように、ピーチャム夫妻を中心とする乞食ワールドが10数名、メッキースの泥棒団が6名ほど、ジェニーを中心とする娼婦ワールドも10名近い。背後に警視総監ブラウンが率いる警官たち――そのすべてのお話が大きな鉄骨鉄橋のようなシンプルでダイナミックな舞台装置のなかで展開するために、それが龍のように見えて、それぞれの世界がくんずほぐれつするこの世の集団力学、いわば民衆のエネルギーの化身のような『三文オペラ』という龍=ドラゴンが実際に生命を得てうごめき始めるように見えてくるのです。

 そもそもは、盗賊団キャプテンのメッキースが乞食の友商会の社長ピーチャムの娘ポリーと結婚したことから、娘を取り戻そうとピーチャム夫妻が、警視総監ブラウンにメッキースの悪行を密告して逮捕させようと画策。だがブラウンはメッキースとは戦友で親友の仲。そこで女王の戴冠式に乞食のデモをすると圧力をかけ、あわやメッキースが絞首刑になるかというときに女王の使者でブラウンが登場し・・・そういった荒唐無稽の喜劇。

 

 初日の感想で舞台のネタばれになってはいけないのかもしれませんが、18世紀初頭のジョン・ゲイの原作『乞食オペラ』を借りてブレヒトが20世紀初頭に自由に翻案改作したありそうであり得ないお話は、「それがこの世の仕組み」という「三文ドラゴン」の仕掛けに取り込まれても行く。ふつうは大道歌手によって唄われる冒頭のメッキースの悪行を並べたてた「モリタ―ト=大道殺人歌」が、序曲の後、全員(乞食に泥棒に娼婦たち…)がどこからともなく、マンホールからも現れてきて、皆で代わり番こに、輪唱・合唱される。そしてあの有名なメッキースの辞世の言葉、「銀行強盗に使う合鍵など、銀行の株券に比べれば何ほどのものでありましょう。銀校設立に比べれば、銀行強盗など何ほどの罪か。男一匹飼い殺すのと、男一匹殺すのと、どちらがたちが悪いでしょう」という今でも十分リアルそうな半沢直樹張りの演説をはさんで、第3幕のフィナーレでまた登場人物の全員によって、「これですべてがハッピーエンド」、「現実の世界ではこうはいかない」、「不正はあまり追及すると、この世の冷たさに、凍りついてしまう」と輪唱・合唱される。二重三重にこの世の嘘と真のからくりが引っくり返って問われ、笑い飛ばされるのです。ブレヒトの歌詞にヴァイルが作曲した23の歌=ソング=曲が、実は全体をコメントしつつ、引っ張って行くドラゴンだった。

 

 気障な女たらしで稀代の大泥棒という池内メッキースは実は憎めない可愛いいい男で、石井タイガ―・ブラウンとのあそこまでの友情もありかと思わせもする。観客に語りかける山路ピーチャムが、実に絶妙な形で全体の狂言回し役となって舞台と客席をつなぐ。

 そしてパワフルな女たち。あめくみちこ演じるピーチャム夫人は山路ピーチャムのいい相棒だし、ポリー役のソニンはいまどきの可愛いぶりっ子風のしたたかさで大健闘、大塚演じるブラウンの娘ルーシーとの妻の座をめぐる闘いと嫉妬のデュエットも楽しい。対して、愛するメッキースを二度も裏切る娼婦ジェニー役の島田は、人生の酸いも甘いも体得した大人の女の切なさと哀しさとしたたかさを、唄のうまさだけでなく風情と佇まいと立ち位置で魅力を際立たせる。

 その7名だけでなく、乞食たちや泥棒たちや娼婦たちや警官たちも、「たち」としてだけでなく、それぞれの顔と表情と存在がしっかり見える、稀有な民衆劇になっている。”ドラゴン”は、この世界という劇場を動かしている仕組みや潜在力・エネルギーの隠喩でもあり、最後のフィナーレの讃美歌は、「マルティチュード」の負けてたまるかの人間讃歌ともとれるかもしれない。

 

 そんなこんなが相まって、実に重層的な『三文オペラ』ワールド、”三文ドラゴン”が出来あがっています。それらすべてを仕切る現場監督のような粘り強くタフな演出家宮田慶子の腕力こそ”ドラゴン”だったか。初日の硬さはあったものの、それがほぐれてパワー全開すれば、もっと楽しく大きな”三文ドラゴン”が蠢く舞台になっていくことでしょう。舞台は生き物、毎日成長変化していく龍です。観てお損はありません、お勧めです。まだ空席はあるようですし、この秋は是非、新国立劇場へ!

演劇の秋へのお誘い

芸術の秋、演劇の秋へのお誘い

 

9月になった途端に夏が秋に取って代わられたみたいな、夏好きとしてはちょっと待ってえ、の心境ですが、心地よい季節はご同慶の至り。そして芸術の秋、演劇の秋でもありますので、ちょっと劇場へのお誘いを! 

 もちろん9月10日初日の『三文オペラ』も、稽古や上演パンフその他の本番への準備たけなわなのですが、他にもたくさんのお勧めの舞台が目白押し。そういうなかで、ドイツ演劇絡みの作品を二つだけ…。

 

 ひとつは、東京演劇アンサンブルは60周年記念公演の第二弾として、9月11-21日に武蔵関のブレヒトの芝居小屋(元映画スタジオの面白い空間です)で上演される、三輪玲子訳、公家義徳演出のデーア・ローアー作『無実』。デーア・ローアーは、ドイツ語圏でブレヒトミュラー系譜を継ぐ(と私が思う)二人の女性作家の一人で、もう一方が、エルフリーデ・イエリネクだろう。イエリネクはノーベル文学賞を受賞し、すでにF/T(フェスティヴァル・トーキョー)での『光のない』(林立騎訳)の演出の競演など、日本でもかなり紹介受容されている。ともにポストドラマ的ドラマなのだが、その拓き方が、それぞれに微妙に決定的に違っていて、比較考察すると興味深い。ローアーは、三輪玲子さんが印象的な分かりやすい邦訳を論創社からいくつか、出されている。ローアー作『無実』は2003年の作品なのだが、どこか「フクシマ」をめぐる「罪」を先取りしたような問いかけがある。公家演出がそこをどう舞台化するか、楽しみ。

 

 もうひとつのお勧めは、東の演劇祭F/Tに対応(?)すると言われる、西のキョウト・エクスペリメント=京都国際舞台芸術祭。今年で五回目の開催で、その枠内で昨年もドイツから来日公演したShe She Pop.の新作『春の祭典』。このグループは1998年にギーセン大学の8人の女子学生で設立され、今は6人の女性と一人の男性で構成されているというが、メンバー全員の手による集団作品だ。2010年に横浜KAATで招聘公演した、『リア王』を素材にした『テスタメント』で日本でも一躍注目された。この公演は近刊の拙著『演劇の未来形』でも紹介しているので参照いただければ嬉しい。自分たちの本当の父親を起用して、自伝的な要素も取り入れて、老いのテーマでシェイクスピア原作ともいわば共同創作。今年は、ストラヴィンスキイの『春の祭典』を使って、その父親と子の問題を、母親と子の関係に展開・転回させるのだという。しかも、京都エクスペリメントとの共同制作で、日本初演。10月4日と5日の2公演だけ。ちょっとしんどいが、行かざなるまい、いざ京都へ、というところだろうか! 地点の三浦基演出『光のない』も再演されるが、10月18,19日では、二週間の滞在が必要? 迷うなあ。

ともあれ、演劇は出かけて自分で観るしかないのだ…。

 

谷川道子著 『演劇の未来形』

 

 

谷川道子【著】演劇の未来形

閑話休題、話題を換えて、といっても、また我が身の宣伝で恐縮だが、実は、外語大出版会から、『演劇の未来形』というすごいタイトルの拙書が9月中に出ます。
外語大の最終講義から、3・11以降まで、ドイツ演劇と日本の間をつなぎたい思いの最近の論考を集めた本です。ま、我が遺言か、人生の卒業論文です。チラシができましたので、転載・宣伝させて頂きます。菊池信義さんの素敵なフランス装丁の外語大出版会ピエリア叢書で、368頁の大部ですが、若い方に買って貰いたいと2400円定価です。大学出版会として頑張っていますので、是非とも応援して頂ければ、幸せです。中味は、乞うご期待?

 

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Tokyo University of Foreign StudiesPress

東京外国語大学出版会 新刊のご案内
2014 年 9月19日発売
谷川道子【著】演劇の未来形
四六判・仮フランス装・368 頁・定価:本体2400 円+税

ISBN978-4-904575-36-9 C0074 ¥2400E

ブレヒトミュラー、イェリネク、ピナ・バウシュなどのドイツ現代演劇と、アングラ演劇、蜷川幸雄富良野塾、若手・シニア劇団など日本の演劇シーンを遍歴し、内外のさまざまな上演・劇場の現場をめぐりながら、1960 年代から〈3.11〉後の文化状況までを射程に、時代史と個人史の交点で演劇の可能性をさぐる、人間と文化の未来に向けた渾身のメッセージ!

【本書の目次より】
第1 章  個人史と時代史の交点としての演劇遍歴
第2 章  演劇と〈教育劇〉の可能性
第3 章  日本のブレヒト受容とアングラ演劇
第4 章  トランジット・ベルリン
第5 章  ベンヤミンブレヒトをめぐる亡命
     /越境のトランジット
第6 章  日本からのエクソフォニー
第7 章  ハイナー・ミュラー『指令』の時空
第8 章  演劇アヴァンギャルド・イエリネク
第9 章  ピナ・バウシュのまなざし
第10 章 福島オデュッセイ
第11 章 演劇の明日のために
第12 章 未来への挑戦
【著者紹介】
谷川道子(たにがわ・みちこ)
1946 年鹿児島県生まれ。東京外国語大学名誉教授。専門はドイツ現代演劇・表象文化研究。著書に『聖母と娼婦を超えて――ブレヒトと女たちの共生』(花
伝社)、『ハイナー・ミュラー・マシーン』(未來社)、『ドイツ現代演劇の構図』(論創社)など。訳書にブレヒト『母アンナの子連れ従軍記』(光文社古典新訳文庫)、『ガリレオの生涯』(同)、『三文オペラ』(同)、レーマン『ポストドラマ演劇』(共訳、同学社)などがある。
*Pieria Books(ピエリア・ブックス)とは、東京外国語大学出版会の叢書名です。
*ご注文・ご予約は、最寄りの書店、各ネット書店にてお申し込みください。全国の書店でお取り扱い可能です。

 

『三文オペラ』の稽古について

三文オペラ』の稽古について

 

 これだけの作品なので、どうやって全体を構築していくか、そのプロセスの全体を仕切る芸術監督で演出家の宮田慶子さんの、段取りの見事さと気合いの強さ、気風の良さにまずは真から感心。キャストは早めに決まっていたので、5月に台本作りの読み合わせと相談を制作の茂木さんを入れた3人で集中的に行い、6月には上演台本を作成して全員に配布、7月半ばに顔合わせ、そして最初の1週間は集中的な歌稽古。その後10日ほど歌と台本解釈も加えた全員の読み合わせ、そして8月に入ったらもう稽古場に装置が組まれて立ち稽古の開始、8月半ばには粗立ちで(?)、大体の流れが浮かび上がってきた。

 何せ、役者だけで40余名。ピーチャム夫妻を中心とする泥棒ワールドが10数名、メッキースの泥棒団が10名ほど、ジェニーを中心とする娼婦ワールドも10名近い。背後に警視総監ブラウン率いる警官たち――それぞれがくんずほぐれつする中で見えてくるこの世の集団力学、いわば民衆のエネルギーの化身のような『三文オペラ』という龍=ドラゴンが生命を得てうごめき始める。 

 いま、そこまで来ただけでワクワクなのだが、8月末からは生演奏の9名のバンドが入って、大きな稽古場も、現場監督のような宮田さんの名仕切りでも大変になるだろう。9月から仕込みに入って、舞台稽古開始だから、9月10日の初日には、魅力あふれた役者さんたちがそれぞれの顔と演技を競う『三文オペラ』ドラゴンが、大きな中劇場狭しと、どんな姿で果たして、立ち現われてくるだろう。どんなメッキースとポリーとジェニーが登場するか。幕切れは? ウーマンパワー炸裂となるか? あれもこれも、乞うご期待!!

『三文オペラ』という作品について

三文オペラ』とは、豊饒と猥雑さのエネルギーの塊  

    

まずは『三文オペラ』とはどういう作品か、光文社文庫の解説から少し借用!

 

おいしいやっつけ仕事『三文オペラ

 ドイツ文学史で「レジェンド」というなら『ファウスト』、「ミラクル」といえば『三文オペラ』だろうか。偶然が必然とひっくり返って、時代精神にピッタリはまった。

ブレヒト(1898-1956)といえばまずは『三文オペラ』。その『三文オペラ』というと、黄金の一九二〇年代――狂乱のベルリン――マルチメディアのメガヒット、そんな連想ゲームがすっと成立する。第一次世界大戦の敗戦とヒトラーの政権獲得にはさまれたドイツ初めての共和国――なかば郷愁をこめて回顧されるその「黄金の二十年代」の蕾の象徴が無声映画カリガリ博士』(1919)なら、『三文オペラ』はさながら、ヴァイマル共和国時代の最後に見事に咲いた、狂い咲きというより、時代精神に触れて咲くべくして咲いた大輪のあだ花のようでもある。

 

 一九二八年八月三一日の初日は、ヴァイマル共和国の演劇にとって伝説的な日付となった。たちまちの『三文オペラ』フィーバー、絶賛の記事とソングのメロディーはラジオやレコードで巷にあふれ、一年余のロング・ラン。失業者の増大やナチスの台頭といった政治的な緊張の高まりのなか、『三文オペラ』にこめられた辛辣な反逆精神と魅力的で反抗的なエンターテインメントは観客を魅了し、一九三〇年までにドイツ中の百二十を越す劇場で四千回以上の上演数を記録。さらにはモスクワ、パリ、東京、ニューヨーク等と上演され、レコード化と一九三一年のパープスト監督による映画化でさらに拍車がかり、一躍ベルトルト・ブレヒトの名前は世界にとどろくこととなったのだった。

 

 そもそもの発端は、材木商売で一山あてた野心家のプロデューサーのヨーゼフ・アウフリヒトがシフバウアーダム劇場(現在のベルリーナー・アンサンブル)を引き受けて改装し、その柿落し公演で一旗あげようと画策して演目を探していたこと。当時の人気劇作家で大御所のゲオルク・.カイザーの作品に決まりかけていたのが頓挫して、『男は男だ』で注目を集め始めていたブレヒトに注目。カフェでたまたま出くわしたというが、おそらくは互いに策士同士、待ち伏せしていたのだろう、アウフリヒトはブレヒトの用意していった提案に心そそられた。

実はそのまた発端は、その頃のブレヒトの女性秘書エリーザベト・ハウプトマンが一九二六年にロンドンでリヴァイバル上演されヒットした一七二八年のジョン・ゲイ作『乞食オペラ』に注目してドイツ語に翻訳、ブレヒトが片手間にその改作を始めていたことだった。これなら杮落しに行けるぞと直観したブレヒトは、それでアウフリヒトに話をもちかけ、歓心を買うことに成功した。すでにソング劇『マハゴニー』を共作していた作曲家のクルト・ヴァイルを誘って、決まっていた初日(アウフリヒトの誕生日!)目指してブレヒト夫妻とヴァイル夫妻は二八年夏に南仏の保養地で缶詰めになって大車輪で台本と作曲を完成。ただし慎重な策士のアウフリヒトは、現代音楽「新音楽派」のブゾーニの弟子で無調音楽風のヴァイルの作曲に危惧を抱いて、いざとなったら『乞食オペラ』の原曲を使うことも準備させていたらしい。

八月三一日に幕があくまでは、まさにご難続きだった。ポリー役のカローラ・ネーアーは夫の作家クラブントが直前に逝去、急遽短期間でローマ・バーンが代役をこなすことになったり、ブレヒトの妻ヴァイゲルは娼婦の館の女将役だったのだが、盲腸炎となったため、この役のパートがすべてカットされてしまった。役者はさまざまなジャンルの混成で、主役メッキース役はオペレッタ役者のパウルゼン、夫ヴァイルの押しでジェニー役でデビューしたロッテ・レーニャはいわゆるキャバレー歌手、初日のパンフに名前が落ちていてヴァイルが激怒したと言う逸話もある。

ともあれ辻褄の合わない箇所も何とか取り繕った急拵えの新作だ。一九二二年にブレヒトのデビュー作『夜打つ太鼓』を演出したエーリヒ・エンゲルと旧友の舞台美術家カスパー・ネーアーが頼りで奇跡的に幕を開けた初日、失敗は必定と思われていたのに、意外にも客席は途中から、歓呼と賞賛でどよめき始めたのだった。必死のドタバタ感が逆によかったのかもしれない。

 

 ジョン・ゲイとブレヒト

その『三文オペラ』は、盗賊と乞食と娼婦の世界のお話で、もともとの原作は二百年前のジョン・ゲイの戯曲と作曲家ペプシュにもとづく『乞食オペラ』(一七二八)。一八世紀初頭に硬直化したイタリア・バロック宮廷オペラ、とくに華麗なヘンデルのオペラに対して明確に反旗を翻して新しいジャンルとして登場した、三幕の音楽劇(バラードオペラ)だ。風刺的な喜劇で、当時流行していたバラードやモリタート、流行歌などの歌謡やオペラのメロディをパロディ化して新たな歌詞が付けられ、大ヒットした『乞食オペラ』に倣って、多くの市民的・民衆的な娯楽音楽劇がつくられたが、このバラード・オペラの影響を受けてドイツに起こったのが、「ジングシュピール」と名づけられるものでもある。その代表格がモーツアルトの『魔笛』(一七九一)だろう。ブレヒトも、二〇世紀初頭のオペラや演劇における音楽の在り方を疑問視し、エンゲキTheaterをエゲンキThaeter,オンガクMusikをオガンクMisukとわざと言い換えて、新しい音楽劇ソングプレイの可能性を探っていた。二百年を挟んで、両者の想いは重なっている。

さらに言えば、このバラードオペラ『乞食オペラ』は、痛烈な政治批判・風刺の機能も果たしていた。一八世紀初頭は英国経済のバブル期で、株価も乱高下し、それに巻き込まれた商人や政治家のスキャンダルも相次ぎ、渦中のウォルポール政権や腐敗した時代風潮も、この『乞食オペラ』では痛烈に批判・揶揄されている。その成功に気を良くしたゲイは後日談『ポリー』を書いたが、こちらは発行禁止処分を受けた。

興味深いのは、その二百年後のブレヒトの『三文オペラ』の初演時の頃も、一九世紀末(1871年)のプロイセンドイツ帝国の成立で泡沫会社乱立のバブル期だった。『三文オペラ』初演のシフバウアーダム劇場も、その時期に建てられたロココ風のバブル成金趣味の遺産である。そして、一九二九年には、NYウォ―ル街の金融恐慌で、株価の大暴落が世界恐慌を引き起こし、ヒトラー政権や第二次世界大戦への引き金になっていく時期でもあった。近代資本主義の右肩上がりの興隆期とその没落期への転換点が、合わせ鏡になっているともいえる。

ゲイの『乞食オペラ』は邦訳(海保昌夫訳、法政大学出版局、一九九三年)もあり、それとブレヒトの『三文オペラ』の詳細な比較検討に関しては、岩淵達治著の『《三文オペラ》を読む』(岩波)セミナーブックス44』(1993)も参照して頂きたいが、そんなこんなのこういう重なり方も、それをたまたまエーザベト・ハウプトマンが目にし、耳にしてドイツ語に訳していて、時代風潮とアウフリヒトの野心的要請にピッタリはまったというのも、偶然が必然に転換する大きな要因であった。ブレヒトのそういう目の付けどころこそが、勘と運の良さだろうか。まさにミラクルである。

 

しかし、ブレヒトはジョン・ゲイをそのまま踏襲しているわけではない。ソングの歌詞は殆どがブレヒト作で、しかもフランソワ・ヴィヨンの独訳を勝手に無断借用したことが後に裁判沙汰になったりしたりと、かなり杜撰なやっつけ仕事ではあった。内容の方も、けっこう微妙にずれている。ところは同じロンドンだが、ゲイの原作がウォルポール政権時代の一八世紀前半であるのに対し、ブレヒトビクトリア朝(一八三七―一九〇一)時代におきかえた。具体的な指定はないが、とくにメッキースとタイガー・ブラウンが唄う「大砲の歌」で、二人はインドの植民地軍以来の大親友、「喜望峰からインド南まで」、つまりボ―ア戦争(1899-1902イギリスと南アフリカボーア人の戦争)で戦い、イギリスが植民地化で大英帝国を築き上げていく時代であることが示唆される。何故なのだろう。ロマン主義的で牧歌的な近代資本主義の変質過程だ。

 

ブルジョアへの揶揄

「『三文オペラ』への覚え書き」でブレヒトは、この作品が内容として、ブルジョア的発想をまな板に載せて検証していることを何度も強調している。ピーチャムが悪党なのは、彼の抱く世界観にある。ポリーはピーチャムの娘で、マックに惚れても父親の会社の社員である。「盗賊メッキースは、ブルジョア市民的性格をもつ人物」として演じられなければならない。盗賊はブルジョア市民ではないから、ブルジョア市民は盗賊ではない、というロマンチックな誤解は、ビジネスマン・メッキースを成立させない。「警視総監ブラウンは、非常に現代的な人物である」。.私人としての彼と公人としての彼は、その分裂を使って生きている。等々。

場所は大英帝国に成りあがろうとするロンドンの下町、主人公は、匕首マックこと盗賊団の首領メッキース。芝居は、そのマックの悪業を並べ立てる歌を大道演歌師が手風琴で歌う序幕から始まる。第一幕では、ロンドンの乞食の総元締めピーチャムの娘ポリーがマックと結婚してしまう。それを知ったピーチャム夫妻は娘を取り戻そうと、マックを警視総監ブラウンに密告することを画策。第二幕、夫の一大事を知らせに駆け付けた妻ポリーに盗賊商売の仕切りをまかせて、マックは遁ずらをはかる。そうはさせまいとピーチャム夫妻は、マックの昔からの情婦で娼婦のジェニーを買収。木曜日の習慣で娼婦の館に現れたマックをジェニーが裏切って、ブラウンは仕方なく戦友マックを逮捕。しかし恋人の一人だったブラウンの娘ルーシーの助けで脱獄する。第三幕、ピーチャムは今度はブラウンを、逮捕しなければ女王の戴冠式に乞食たちのデモ行進をしかけるぞと脅す。再度のジェニーの裏切りで再逮捕されたマックは、ついに絞首台に送られることになる。ところが、その間一髪のところで馬に乗った女王の使者が到着して恩赦を伝え、しかもマックは城と終生年金つきの貴族に叙せられて、めでたし、めでたし、というお話だ。

その全三幕九場の間に、風刺とパンチとリズムの利いたクルト・ヴァイル作曲の愉しいソングがふんだんにはさまれている。「一人、二人を殺せば人殺し、たくさん殺せば英雄」、「銀行設立に比べれば、銀行強盗などいかほどの罪か」――台詞と曲は数々の名文句でぴりりと的をついて客をくすぐり、今でもしっかりリアルで小気味がいい。しかもふんだんに挿入されるソングは、劇伴音楽などではないどころか、語りの地平を異化し、からかいと風刺で客観化し、はやり歌や大道演歌の節回しにオペラやタンゴのパロディ、アメリカン・ジャズが加わったヴァイル独特の甘美で親しみやすい音楽にのって唄われる。各幕は贅沢なフィナーレ付き。ジャンル規定もはねのけるほどの受容力とクロスオーバーのヴァイル流の自在さが、受けないはずはなかった、とも言える。

 しかし揶揄したつもりの相手に大喝采されたブレヒトは、映画化に際してはマックが強盗業から合法的な銀行家に鞍替えし、ピーチャムとブラウンも手を握って仲間になるというさらに先鋭なシナリオ『瘤』に書きかえた。だがネロ映画会社に拒否されて訴訟をおこす。中途で示談金を受け取って引きさがったが、そのお金は後にブレヒトの映画『クーレ・ヴァンペ』の資金となり、その訴訟経過は映画産業の社会学的な考察『三文裁判』としてまとめ、しかも映画のシナリオはこっそり友人たちに書かせて目論みは達成(『瘤』ではブラウンが乞食のデモの群れをいくら排除しても仕切れない悪夢を見る場面は秀逸だが、パープストの映画では、ピーチャムが乞食を先導する演説をぶっているところに、メッキースが銀行頭取に就任したことをピーチャム夫人が知らせに来たので、急遽、乞食の行進を押しとどめようとするのだが、もはや押しとどめられない、という場面に代わっている!)、亡命期にはこういうことをさらに詳細に分析する長編『三文小説』まで完成させた。

ブレヒトらしい二枚腰どころか数枚腰。あだ花はあだ花でも、『三文オペラ』はたっぷり毒をはらんだ時代の大輪の「夜の華」、生産的な成功作で文字通り時代を切り取った「おいしいやっつけ仕事」だったのだ。

 

 冒頭で歌われる「モリタート」

知らないよという方も、譜や台詞を口ずさんでみると、聞き覚えがおありだろう。「匕首マック」、あるいは「マック・ザ・ナイフ」の名前で、今ではジャズのスタンダードナンバーにもなっている。かつては紅白歌合戦でもよく唄われた。 同じ年に出たレコードと楽譜も爆発的な売れゆきで、この「モリタート」も巷間で広く口ずさまれ大ヒットになった。

 「モリタート」というのは、歳の市や教会の縁日で戦争や犯罪、災害といったニュースを物語詩(Ballade)に仕立て仕立て、手風琴で台(Baenkel)の上でそれを歌いながら瓦版のようなビラやちらしを売る大道演歌師(Baenkelsaenger)が、なかでも好んで歌った「殺し(Mordtat)」を扱った「殺人物語大道歌(Moritat)」のことで、一六~一七世紀頃からいわば民衆のクチコミがマスメディアのような役割も果たしてきたのだが、この形をそのままブレヒトは『三文オペラ』の冒頭で使ったわけである。

もっともこの歌は、主役メッキー・メッサー役の役者パウルゼンの持ち歌をもう一曲ふやしてほしいという要求に、逆にメッキースの悪業を冒頭で並べたてる形でブレヒトとヴァイルが即座につくって、しかも結局は別の役者によって歌われたのだが(『三文オペラ』の成立事情に関しては岩渕達治・早崎えりな著『クルト・ヴァイル』、ありな書房参照)、俳優の見栄の産物ともいえるこの「モリタート」がかくもポピュラーになったのは、皮肉といえば皮肉である。それにはモリタートという形式とヴァイル作曲のもつ大衆性の果たした役割も大きいであろうが、それにしてもこの歌詞はちょっと不思議な気がする。

 

「匕首伝説」のひっくり返

 ゲイの原作同様、ブレヒトの『三文オペラ』にも当時のアクチュアルな問題への揶揄がふんだんにちりばめられているが、この「匕首マックのモリタート」も、一方では一九世紀末にロンドンで起こった猟奇事件=売春婦連続惨殺人犯「切り裂きジャック」を想起させながら、他方で、当時さかんに喧伝された「匕首(あいくち)伝説」への挑戦・異化なのではないかとの推測が浮かぶ。

「匕首伝説」とは、第一次大戦後に国家主義的な陣営の側で主張された、一九一八年のドイツの第1次大戦の敗北を説明する言葉だ。「ドイツは戦争に敗けたのではない。背後から匕首で刺されから敗北したのだ」。つまり匕首=革命が、内側からの裏切りとしてドイツを敗戦に導いたのだとする説で、右翼陣営が主張した左翼つぶしの言説である。敗色濃厚な戦争末期、国内で反戦の気運がたかまり、ロシア革命を横目に見つつ、一九一八年一〇月キール軍港の水兵の暴動を契機にドイツ革命がおこり、その波紋は北ドイツから南西ドイツにまで拡がっていくが、白衛軍・政府軍によって鎮圧される。そして、ベルリンではカール・リーブクネヒト、ローザ・ルクセンブルクミュンヒェンではクルト・アイスナーなどの指導者が殺害された。このように匕首伝説は実態とは対応していない。そこをブレヒトは、逆手に取った。

 匕首マック、ドスを白い手袋と紳士のいでたちで隠し、殺しや悪業の背後に姿をかいまみせながら決して証拠は残さない、金と教養と気取りで暴力とニヒリズムと裏切りを覆い、下層の庶民の味方のふりをしながら警視総督とは無二の親友――メッキースの体現するそんなブルジョア市民階級のエゴイズムの論理とメカニズムは合法化された悪行であり、絞首刑になんかなる性質のものではないのだ。それが一九二〇年代に勃興したブルジョア階級の実態だ。だからハッピーエンド。だけど本当は匕首を隠しもっていたのはそっちじゃないか――「モリタート」でブレヒトは冒頭から、そんなひっくり返しを目論んでいたのではないだろうか。

「匕首伝説」を下からの革命を鎮圧した構造へと、あるいはヒトラーの政権獲得につながった構造へと逆転させるかのようなブレヒトの異化。だって『三文オペラ』の登場人物は盗賊に乞食に娼婦、もろに最下層階級のルンペンプロレタリアート、今のネグリ/ハート流にいえば「マルティチュード」、あるいは99%だ。その民衆が分化して、一部がいかにブルジョア階級に成りあがって行くか、行ったか。『三文オペラ』と「匕首伝説」の連関―、そんなこんなを考えさせる謎を多様に孕むのが、ブレヒトの作品だと思えるからだ。

 

三文オペラ』は実は女たちの芝居

 しかしここでもうひとつ強調したいのは、『三文オペラ』は実は女たちの芝居ではないかというお話だ。

 もちろん『三文オペラ』の主人公は、匕首マックことメッキース氏である。白い革手袋に匕首かくし、象牙の柄のステッキに黒い帽子、しゃれたいでたちで毎週木曜日には娼婦の館におでかけし、警視総監とは無二の親友、自分の手は決して汚さぬ盗賊団の首領。「イヨーッ、色男!」と声を掛けたくなるほどのモテモテぶり。

 だけど、『三文オペラ』は、ほんとは、女たちの芝居ではないか。彼女たちの、何といきいきしていることか。

 まずは、やっぱり、ポリー。

 親にも内緒でメッキースと結婚式をあげたポリー・ビーチャムは、そのわけを、三人称の「バルバラソング」の形でこう両親に説明する――どんなに金持ちで親切で礼儀作法を知っている男でも、今までいやと言い続けたけれど、でもある日、あの人がやってきて、私の部屋の釘に帽子をかけたら、それから先はおぼえがないの、お金持ちでも親切でもないし、レディの前での礼儀作法も知らなかった、でも私、言えなかったの、いやとは――。

 金にも世間体にも眼もくれず、愛情いちずに、はじめての男メッキースと結婚してしまったかのようなポリーだけど、「でもあの人、実入りはいいのよ。……ちゃんと私知ってるの、貯金がいくらあるか、数字をあげて説明することだってできる。それに見込みのある商売にも手を出してるし、だからみんなして、田舎の小さな別荘に引っ込むこともできるわけ、おとっつぁんの尊敬しているシェイクスピアさんみたいに」と、父親を説得する。しっかり計算はしているわけだ。しかも、「俺が老後の最後の頼みの綱にしているあの娘を手放したら、この家はつぶれる、最後の運も逃げていってしまう」、そんな父親の思惑なんぞ、おかまいなし。「この恋は誰にもわたさない、だって恋はこの世で一番、尊いんだもの」。恋と計算と、盗賊団の親分の女房ならどんな人生になるのかしらの冒険心。誰だっておしきせよりは、自分の人生を生きたほうが、面白い。婦人参政権男女雇用機会均等法もなかった時代なら、女はそれなら、面白い伴侶を選んだ方がてっとり早い。メッキースにほかにたくさんの女のいることなど、百も承知、二百も合点。純情ポリーは、どっこい自立した、しっかり女性なのだ。

 ポリーのしっかりぶりは、随所にあらわれる。

 第一.ポリーを失うくらいならその前に未亡人にしたほうがいいと、絞首刑にメッキースを密告しようとする父ビーチャムの企てを知ったポリーは、さっそくメッキーススにそのことを知らせ、身を隠すように促す。ここまでは愛のため。

 第二.ずらかるにあたって盗賊商売の指揮を妻ポリーに託そうと、メッキースは元帳、手下どもの人頭帳などを説明。すすりなきながらポリーは、それをしっかり受けとめる、「あたし、歯をくいしばって、よくお商売に気を配るわ、あんたの物はもうあたしの物なんだもの」。これも夫のための妻のつとめ、銃後の義務。ただし蛇足ながら、たとえばドイツでの婦人参政権は、第一次世界大戦中に銃後を守った女たちの権利意識にも、基づく。

 第三.夫の不在中の指揮をおおせつかったポリーは、「ブラヴォー! ポリー万歳!」と拍手喝采されるほどに、手下どもに女親分としての才覚を示す。ここでもうポリーは、おそらくメッキースからも、殆ど自立しているのだ。旅立つ夫をキスで見送りながら、「きっともう、帰ってはこないんだわ」とひとりごちるポリーは、すでにここで殆どメッキースに別れを告げている。結婚式の翌日なのに、たいしたものだ。

 第四.それでも淫売宿に立ち寄って捕まったメッキースを監獄に訪ねたポリーは、そこで恋敵ルーシーと鉢合わせ。女の嫉妬=男の所有権をめぐって、張り合う。敗けてたまるか。女の闘いなのだもの。

 第五。脱獄したメッキースの行方を探して、ポリーはルーシーを自宅に訪ね、あれこれと探りを入れる。そして二人とも行方を知らされていないことがわかって、意気投合。敗けた者同士の連帯感、あるいは男ってくだらないわねぇという女同士の共感。ルーシーの妊娠が嘘だったことを知って、ポリーは言う、「ねぇ、あんた、メッキースが欲しいんならあげるわよ、みつけ次第、お盗んなさいよ」。この、度量、やさしさ、余裕。

 第六.またもや娼婦ジェニーの裏切りで捕まって絞首刑に処せられようとするメッキースを訪ねたポリーは、商売はとてもうまくいっているけど、お金は全部銀行に預けちゃって看守買収のための手もちがないの、という。何とかするわといいながら、何ともしない。だってメッキースは、自業自得なのだもの。そして絞首台にかけられる夫を、皆と一緒に見物する。

 第七.土壇場の馬上の死者の到来で、メッキースに恩赦がおり、しかも世襲貴族の称号と終生年金の付与までが告げられると、「助かった、あたしの大好きなメッキースが助かった、あたしとっても幸せよ」というポリー。そうだろう、これならポリーだって、異存あるまい。終わりよければ、すべてよし。いい気なもの、になれる、この器量。

 ポリーのしたたかさ=実際的才量は、親ゆずりだ。母親シーリアのしたたかさを見よ! それに盗賊団の元締めは、父親の乞食元締め商売と殆ど御同類。娘=使用人として、そのノウハウは、しっかりすでに身につけている。アングラ=暗黒街=裏街道に徹しつつ、いずれは銀行業に鞍がえできる分だけ、父親よりメッキースの方が、それを知っている分だけ、母親よりポリーの方が、より合理的で、より近代的、より市民的というわけだ。経済権を理解して裏で握る女は一層強いのだ。

 警視総監ブラウンの娘ルーシーも、市民=かたぎの娘、ポリーと同様、やくざのメッキースとの恋に、かたぎの人生を超えたロマンを夢見ただろうが、半分やくざのポリーにはかなわない。悲しいかな、生まれ、というより育ちが違うのだ。明日の我が身を類推させるシーリアのような母親は登場しないけれど、私人としてはメッキースの親友でありながら、そこからこっそりある程度の恩恵も蒙りながら、公人=役人としてはメッキースを絞首刑から救えない父親ブラウンの人格分裂と同じように、ルーシーにも、この分裂は超えられまい。こっそり、ある程度のアヴァンチュールは、楽しめる。だけどポリーとの女同士の連帯感のおかげで、男の不実へのけりがつけられる。

 むしろポリーの対極は、ジェニーだ。かつてメッキースとは、ヒモと娼婦で一緒に暮らした仲。「過ぎたことさ、とうの昔、あんたでなければダメだった。あたしが稼ぎ、あんたがせびり、それでもいいの、くされ縁」。過去にメッキースの子を宿したことまでありながら、数ある愛人のひとり、暗い日々の時代だけの道づれ。今ではあいつは盗賊団の首領に成り上がり、ジェニーは娼婦のまんま。でも今でもメッキースはジェニーのお客で情人=アマン。そのジェニーが、メッキースを二度までも裏切る。

 ジェニーはあたりき、おぼこじゃない。人生の酸いも甘いも、裏も表も知りぬいて、やくざの裏街道を、どっこい彼女もしたたかに生きている。たとえば「ソロモン・ソング」で、あまりの知恵、美貌、勇気、好色、好奇心の末路を歌うジェニーは、情も、情に流されることの危険も、善意や道徳のいかがわしさも、裏切りの術も、密告したってメッキースはうまくやってのけるだろうことも、情をかけたって何にもなりはしないことも、あれもこれも知っているのだ。最後の処刑の前の演説で、メッキースはこう言った、「ジェニーが私を売ったのは、私には非常な驚きであります。これこそ世界がいささかも変わらないことの、明白な証拠であります」。どんな仕打ちをしようとも、惚れた女が裏切るはずはない、そんな男の思い上り。女だって、男のずるさにはできる仕返しはするのだ。ざまあ、みろ。だって、裏切りはこの世の掟。女にだって同じこと。だから世界は変わらない。

 ブルジョワ社会は、金(マネー)と恋(セックス)と出世(サクセス)がすべて。株式市場とハリウッド映画と摩天楼(六本木ヒルズ?)がいい証拠。そして、裏(本音)と表(たてまえ)の二枚舌をその基本構造とする。それがブレヒトのいう「ブルジョア的な物の考え方」だろう。合理的で実務的で演技的な感覚にたけたメッキースはその代表格、女王陛下の恩赦をうける資格は十分だ。奴は女たちだって、表と裏で使い分ける。

 結婚は、メッキースにとってもブルジョア市民社会で自分の商売と資産を確実にするための手段のひとつ。すでに数回の結婚を繰り返して、成り上がってきた。身元たしかで財産があって、商売の助けとなる才覚ももった一応かたぎのポリーは、メッキースの結婚相手にはうってつけだ。私有財産は血縁を基盤とする。不在中の商売と金も、使用人には信用がおけないから妻のポリーに託す。おまけに家庭的な楽しみつき。対して、娼婦たちの世界は、かつての故郷、いまの気ばらしで、名声。しょせんはやくざ者同士の気のおけなさ、身についた習慣、ブルジョワ的魔性と見栄、そしてある種のロマンチシズムが評判になることが有利であることも、メッキースは心得ているのだ。しかしそれが落とし穴。ビーチャム夫人は、「色欲の罠のバラード」を歌ってみせる。「人でなしのあいつより、人でなしなのは、女! 否応なしに堕とす、これぞ色欲の罠」。そいつにメッキースは、はまりこんだ。

 だましたつもりが、ちょいとだまされて――。盗賊と乞食と娼婦は、暗黒街の三大要素、それがブルジョア市民社会の合わせ鏡でもあるのだが、この娼婦たちの世界はひと味違う。  

この頃、あるいは資本主義が女・子供の労働力まで必要としはじめる十九世紀末までは、職業婦人とは、家業を手伝う以外は、未亡人か娼婦でしかなかった。娼婦たちは生産手段の所有者でしかもアウトロー。メッキースのようなサクセス志向もないから、なぜか搾取する元締めもでてこないから(ヴァイゲルの盲腸炎のためその役のパートが消えた!)、一種コミューン的な解放感がある。女同士の連帯感。この気楽さ、のびやかさは、しかしたとえばポリーやルーシーのそれとも通底していないだろうか。女であることの快楽。そういう言い方もあるだろう。女たちは絞首台に送られるほどの責任感からも、恩赦の特権からも、いやそういう世界観から、自由なのだ。

そういう状況は、一九二〇年代のフェミニズムと女性解放運動からも生まれた。あるいはそれは、E・ハウプトマンが女性秘書としてこの作品の密接な協力者となっていることとも関連するのではないだろうか。女性協力者たちが関与するようになってから、ブレヒトの作品は、まなざしが根底から変わっていったという気がする。

「モボ」や「モガ」のモダニズム時代を経て、今はどうなっているのだろうか。

 

      *   *   *   *

 駆け足で雑多な「三文オペラ」ワールドを経めぐったが、『三文オペラ』はかくもギリギリに成立したミラクルさの万華鏡だったのだ。一九二〇年代という時代も、それを舞台に創りだした登場人物たちも、作家、作曲家、女優/妻たちも、あるいは芸術性も娯楽性も、恋愛やセックスも、強請(ゆす)り・たかりや居直り、嘘も誠(まこと)も、本音と建前も、言葉と音楽も、実に豊饒でしたたかに猥雑で人間的であった。それゆえこそのエネルギーに溢れているのだ。

 

 

『三文オペラ』

 この9月の新国立劇場・宮田慶子演出 『三文オペラ』へのお誘い

 ということで、エターナルナウの芝居屋に戻ると、9月10~28日に、新国立劇場で拙訳の宮田慶子演出による『三文オペラ』が上演される。実はもっか、稽古の真っ最中で、翻訳者として時おり覗かせて頂いているが、ものすごいスケールとパワーで実に楽しい。その稽古のことは、次回に!

 

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 その前の8月7日に、光文社古典新訳文庫版の『三文オペラ』が刊行された。もちろんブレヒトの原作(最新版ズーアカンプ社ブレヒト大全集版)の翻訳で、上演台本ではない。むしろ比べて頂くと面白いかと…。すでに書店には並んでいて、写真入りの帯の付いた格好いい本です! 覗いて、900円定価のお買い得なので、買って読んでから観劇もしていただけると、当方としては嬉しい限りなのですが。すべてお損はありません!

 まずはこういった経過を、ちょっと文庫の「訳者あとがき」も借用して…。

 

 新国立の芸術監督宮田慶子さんから新訳してほしい、という依頼を頂いたのは昨2013年春。ずっと気になっていた大好きなブレヒト作品ではあったのだが、え、今、私に?という感じで、ちょっと戸惑った。何せ、我が祖父と父のような千田是也+岩淵達治の両御大の業績と思いが背後霊のように覆いかぶさっていて、日本の戦後現代演劇においても大きな影響を与えた伝説的・神話的な作品だ。

 でも逆に今だからこそ、日本における『三文オペラ』の位置をあらためて考え直せるかもしれない、テーマも現代的だし、それに女性の翻訳と女性の演出と制作で『三文オペラ』が上演されるのも初めてなら、神様の最期の贈物かなと心が動いた。

 以前から私は、実は『三文オペラ』は女性たちの芝居ではないかと思っていて、メッキースだけが超主役のようなこれまでの上演舞台に、いささか不満も感じていた。そもそもが登場人物全員に存在理由がある民衆劇であり、何より女たちがもっとしたたかに生き生きした舞台が観たい。オペラでもミュージカルでもない音楽劇! 今だからこそ、それが可能ではないか、という思いもあった。だから、チャンス到来! 女性視線の『三文オペラ』だ! もちろんそれには男たちが十分に魅力的・人間的でなければならないのだけれど。

 

 それで演出の宮田さん、制作の茂木さん、谷川の三人一緒での台本作りの作業を我が家で何日かかけて行ったりした。もちろん、できれば三時間以内で、というような舞台の時空の制約のある上演台本と、ブレヒトの原作に即した翻訳を旨とする印刷刊行台本は、本質的に別物なので、舞台を挟んで、両者の対比を楽しんでいただければ嬉しい。ソングも、文庫版では原文の内容と形式を重視して訳したが、そのうえで、舞台で生演奏にあわせて唄われるソングの取り扱いは、基本的に演出の宮田慶子さんと音楽監督の島健さんによる上演台本にお任せした。歌でなく語りでなくの、ヴァイルの曲の名調子に乗って唄われる、七五調を生かしたソングの醍醐味も、味わっていただきたい。ラップでの『三文オペラ』もあっていいかなあ。

 

 宮田慶子さんの出身母体の青年座も、調べてみたらずっと『三文オペラ』にこだわってきた。一九七三年の西武劇場だったか、石沢秀二脚本・演出で、西田敏行がプレスリー張りのロック調や、着流しの演歌調といった芸達者振りを駆使・披露して大道歌手を演じた舞台は、こんなのもありかと度肝を抜かれたし、八一年の鈴木完一郎演出『ミュージカル――三文オペラ』は大塚国夫主演だが、石沢秀二脚本・構成とあるからその延長だろうか。九六年には宮田慶子演出でも上演されている。後のふたつはともに未見。しかし、『三文オペラ』に対する宮田さんの深い思い入れは稽古でも感じ取れる。今だからやりたい、うんと猥雑で乱暴で人間的で、基本的には「芝居に寄った音楽劇」として、と言われて納得し、翻訳作業に入った。

 光文社の古典新訳文庫は、九月の新国立劇場の本番前の八月初には刊行したいということで、稽古は七月に入ってからだが、キャストの俳優さんは早めに決まっていたので、写真などでそのイメージを重ね膨らませながら翻訳したが、どういう舞台になるのか、私も期待や楽しみを膨らませつつ、ワクワクドキドキと、本番を待っているところである。

 

 

 

三文オペラ (光文社古典新訳文庫)

三文オペラ (光文社古典新訳文庫)

 

 

同級生交歓

同級生交歓

  梅雨バテや、その直後からの猛暑バテで、このブログも長いご無沙汰…。生きて、書くべきこともそれなりにあって動いてはいたのだが、このブログまではエネルギー到らず…でもせっかく始めさせて貰ったので、ぼちぼちでも、続けようかと…

 

 「ブログ開設の辞」で触れた「同級生交歓」は、「文芸春秋」誌のあの由緒ある写真頁掲載のための撮影会であった。いったいあの頁はどうやって成立しているのだろうと眺めていたものが、いきなり急にメールで一緒に出てくださいの依頼・・・これも、エ、ウッソーの次元。私なんぞが出ていいの? と尋ねる間もなく、有能な同級生たちの手に依って、あっという間にお膳立てが整ってしまって、撮影+交歓会。個人的にはブログ開設のおまけまでついて、八月号に見開きページで掲載された。古希に近い六人の同級生の紅一点、超照れくさいが、すでに刊行公開されているので、ご笑覧ください!さすが「文芸春秋」で、何人かの縁りの方からお便りも頂いたので、やはり、その同窓会のことから再開を…

 

甲南の校名が、大久保甲東(利通)と西郷南州(隆盛)に由来することも初めて知ったほど情けない卒業生だが、桜島を望む蔦の絡まる窓の昭和初期モダニズムの風情のある校舎での三年間、初赴任の九大教養部の教室での懐かしい学生のかごんま弁との再会…どれもこれも忘れがたい。

だが、同窓会というようなものは、エタ-ナル・ナウの芝居屋にはどうも苦手で縁遠い。目の前のことに追われて精一杯で、ついぞご無沙汰だった。それが、二〇〇八年、母校鹿児島県立甲南高校が創立百周年を迎え、同級生の東修一先生が校長さんになられ、その記念講演会にこれもいきなり依頼招待された。「僕が校長になったら谷川さんを呼ぼうと思っていたから」と説得されては、しかもこれは、現役の高校生たちが中心になった甲南塾推進委員会によって、「地球規模でものを考えるリーダー育成」のために、在校生と卒業生の関わり合う場として開設される、と言われると、断る理屈がない…。放蕩娘の帰還よろしく、「大学・ドイツ・演劇」と題して、我が半生記を駆け足で語らせてもらった。それに、現役のピカピカの高校生を前にした何よりのオープンキャパスかなと、我が勤務先東外大の紹介+宣伝もさせて貰って、その年には何人か外語大を受験して合格したらしい。この甲南塾は、今も「甲南新書」としてシリーズ化され出版もされている。いい企画だと思う。

 

講演後に懐かしの高校をあちこち案内・散策させて貰い、夜は盛大で暖かな同窓会の歓迎会…ここまでして頂きながら、その後も同窓生としては相変わらずの恩知らず劣等生のままで、今回の「同級生交歓」に到る、という次第。いまもなお、怠惰な同窓生のままで、エタ-ナル・ナウの芝居屋は続いているが、どこかで恩返しはしなくてはと思いつつ…。